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石高から軍役算出
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人 物 史
亀田高綱
かめだ たかつな
生 没 年
永禄1年(1558)-寛永10年(1633)8/10
出 身
-
幼 名
-
別 称
半之丞、権兵衛、鉄斎員徳
法 名
-
戒 名
-
父
亀田宗俊
母
-
兄 弟 姉 妹
亀田高綱
配 偶 者
-
子
-
官 位
大隅守
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
亀田高俊の関連文化財
亀田高綱 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
亀田高俊
が生まれる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-
天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-
文禄1年 1592年 12月8日 35歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
慶長1年 1596年 10月27日 39歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
慶長16年 1611年 4月7日 54歳
浅野長政
が死去する。
出典:-
慶長18年 1613年 8月25日 56歳
辰刻(7-9時)、
浅野幸長
が
和歌山
(紀伊国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年9月1日条、『当代記』同年月日条、『慶長年録』同年月日条、『浅野考譜』
慶長20年 1615年 4月10日 58歳
徳川秀忠
が
豊臣秀頼
の籠る
大坂城
(摂津国)を攻めるべく、
江戸城
(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に
酒井重忠
を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項
慶長20年 1615年 4月21日 58歳
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月26日 58歳
徳川秀忠
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに赴き、対面する。4日28日に
大坂城
(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月27日 58歳
徳川家康
の使者として
本多正純
が
伏見城
(山城国)にいる
徳川秀忠
のもとに赴き、4月28日とされていた
大坂城
(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月28日 58歳
豊臣秀頼
勢10000が郡山・龍田・
法隆寺
(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。
大和郡山城
(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、
大野治房
・槙島昭光が豊臣勢を率い、
堺
(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年 1615年 4月29日 58歳
浅野長晟
が信達(和泉国)にて
大野治長
の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、
大野治房
・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・
塙直之
・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の
上田宗箇
、
亀田高俊
、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。
徳川家康
は長晟の戦功を賞し感状を発給する。
松平正久
、秋元泰勝、
後藤光次
が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年 1615年 5月1日 58歳
徳川家康
が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 5月3日 58歳
徳川家康
、
徳川秀忠
の
大坂城
(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 5月5日 58歳
巳刻(9-11時)、
徳川家康
が
二条城
(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:
松平定勝
、
青木信安
。
家康が淀(山城国)にて
細川忠興
に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。
本多正信
、
藤堂高虎
、
土井利勝
、
安藤重信
がその協議に参加する。
小笠原秀政
が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝
が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎
勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項
慶長20年 1615年 5月6日 58歳
八尾(河内国)にて
藤堂高虎
と
長宗我部盛親
が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・
藤堂高刑
[藤堂高虎勢](戦死)・
桑名吉成
[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて
井伊直孝
・
木村重成
・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、
内藤政勝
(戦死)。
岩田にて
榊原康勝
と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・
松平忠明
・
伊達政宗
の徳川勢と
後藤基次
・
薄田兼相
・
渡辺糺
の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、
徳川家康
・
徳川秀忠
は枚岡(河内国)に陣取る。7日の
大坂城
(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項
慶長20年 1615年 5月7日 58歳
寅刻(3-5時)、
徳川秀忠
が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・
真田信繁
・
長宗我部盛親
・仙石秀範・
大野治房
・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・
伊東長実
・中島氏種・野々村雅春・
青木一重
・
速水守久
等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:
松平忠直
、
酒井忠世
、
酒井家次
、
本多忠朝
(戦死)、
小笠原秀政
(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、
小笠原忠脩
(戦死)、
黒田長政
、
加藤嘉明
、
松平正久
、
渥美友重
[松平忠直勢]、
駒井昌保
[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、
小倉吉次
、
小倉吉正
、
柳沢元吉
、
丹羽秀重
[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:
真田信繁
(戦死)、
大谷吉治
(戦死)、
石川康勝
(戦死)、細川興秋、
渡辺糺
[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長
の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、
本多正純
、
後藤光次
を介し、
豊臣秀頼
・
淀殿
の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成
が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項
慶長20年 1615年 5月8日 58歳
豊臣秀頼
は
大坂城
サキ島の堀西方にある唐物倉にて
淀殿
・
大野治長
・
速水守久
等とともに残り、徳川家に和を乞うが、
井伊直孝
・
安藤重信
が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、
大蔵卿局
、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、
速水守久
、速水出来、津川左近、
大野治長
、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、
松平忠直
が、
真田信繁
、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、
徳川家康
が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、
二条城
に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19
慶長20年 1615年 5月10日 58歳
浅野長晟
、
蜂須賀至鎮
、
生駒正俊
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に対面する。家康は長晟の信達(和泉国)での戦いを賞し、とりわけ、
上田宗箇
、
亀田高俊
、田胡助左衛門の働きを称える。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 7月13日 58歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条
寛永1年 1624年 2月30日 67歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-
寛永10年 1633年 8月10日 76歳
亀田高俊
が死去する。
出典:-
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