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元亀4年 1573年 7月27日
細川藤孝岩成友通の籠る淀城(山城国)を攻める。
出典:『綿考輯録』巻2

元亀4年 1573年 7月27日
細川藤孝による岩成友通の籠る淀城(山城国)攻めに参加する。
出典:『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 7月28日
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
羽柴秀吉淀城(山城国)に籠る番頭大炊頭、諏訪飛騨守を寝返らせ、岩成友通を孤立させる。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月2日
岩成友通が籠る淀城(山城国)を細川藤孝が攻める。藤孝の家臣・下津一通が友通を討ち取る。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月4日
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月5日
万里小路輔房が死去する。
出典:『系図纂要』「万里小路」

天正1年 1573年 8月8日
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 8月-日
丹羽長秀朝倉義景の母および嫡男・阿君丸を殺害する。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月-日
松井康之が沼田光長の娘を娶る。
出典:『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 9月4日
織田信長佐和山城(近江国)に移る。柴田勝家六角義治が籠る鯰江城(近江国)攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月6日
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月7日
織田信長池田古新に木田小太郎跡職を譲与することを認める。
出典:天正1年9月7日付織田信長朱印状(『池田文書』)

天正1年 1573年 9月10日
磯野員昌より杉谷善住坊が織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に送還される。生き埋めにして首だけ地中より出し、首を鋸引きにする。
出典:『信長公記』巻6(16)(「杉谷善住坊成敗の事」)

天正1年 1573年 9月10日
森郷(遠江国)にて武田逍遙軒と榊原康政大須賀康高等が戦い、康政等が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正1年 1573年 9月16日
一条兼定が隠居し、家督を一条内政に譲る。兼定は妻の生家である大友宗麟のもとに身を寄せる。
出典:『陰徳太平記』巻50「一条兼定卿御流離之事」

天正1年 1573年 9月24日
織田信長が北伊勢に向けて岐阜城(美濃国)を発し、大垣城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 9月25日
織田信長が大田城(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

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