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天正3年 1575年 9月25日
辰刻(7-9時)、織田信長が一乗寺(山城国)にて鷹狩を行う。吉田兼見が茶の湯菓子として焼栗、豆アメ、蜜柑、柿、きんとん、塩引、山芋を振舞う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 9月26日
越前一向一揆攻めに参加した軍勢がおおよそ帰国する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 9月27日
吉田兼見が小皷の徽5懸を織田信長に進上する。津田信澄が信長に披露する。25日の茶の湯菓子の礼および小皷の徽の返礼として雁を兼見に賜う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 9月-日
三好長治が重清豊後守、大西覚養、海部左近将監、篠原自遁、矢野駿河守に寒川氏の昼寝城(讃岐国)攻めを命じる。
出典:『南海通紀』巻11「三好家兵将発向讃州寒川記」

天正3年 1575年 10月1日
織田信長が片岡藤五郎に、赤井直正の退治の為明智光秀を遣わすので加勢するように命じる。
出典:同年月日付織田信長朱印状(「新免文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』557号)

天正3年 1575年 10月6日
原田直政槙島城(山城国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月7日条

天正3年 1575年 10月8日
筒井順慶春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 10月10日
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発つ。垂井(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月11日
織田信長柏原(近江国)にて三条、水無瀬の出迎えを受ける。佐和山城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月12日
織田信長が永原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月13日
織田信長が完成した瀬田橋を見物し、逢坂、山科、粟田口を通過し上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月15日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月19日
伊達輝宗織田信長に進物として送ったがんぜき馬、白石鹿毛、鷹2足が届く。信長が清水寺に参詣する
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月19日
伊達輝宗織田信長に進物として送ったがんぜき馬、白石鹿毛、鷹2足が届く。信長が清水寺に参詣する
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月20日
赤松義祐小寺政職別所長治等が上洛し織田信長のもとに礼に訪れる。(『信』)
奈良(大和国)の神鹿を捕らえ京都に送らせる。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月20日
赤松義祐小寺政職別所長治等が上洛し織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月21日
織田信長本願寺顕如三好康長松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正3年 1575年 10月22日
大和国の道を3間2尺(6m)幅とするようにという織田信長の命に、多聞院英俊が寺社領の田畠の多く損失すると嘆く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 10月23日
姉小路頼綱が上洛し織田信長に馬を進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正3年 1575年 10月28日
織田信長妙覚寺にて京・の茶人を召し寄せ茶会を千宗易の点前で催す。
出典:『信長公記』巻8(9)「御茶之湯の事」

天正3年 1575年 11月1日
吉田兼見が織田信長のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月4日
左近衛大将に任官。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正3年 1575年 11月5日
吉田兼見が近衛前久のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月5日
柴田勝家が剣神社(越前国)に「殿様御氏神」であるので当社および門前居住地に対し諸役を免除する判物を発給する。
出典:天正3年11月5日付柴田勝家判物(滋賀県立安土城考古博物館編『信長と宗教勢力-保護・弾圧そして支配へ-』)

天正3年 1575年 11月5日
吉田兼見が近衛信尹のもとを訪れる。聖護院道澄が近所のいたので、以前、三井寺の灌頂の壇を見物させてもらったことへの礼として兼見とともに赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月7日
権大納言・右大将に任じられる。
織田信長青蓮院尊朝に新地として山城国粟田口72石と花園28石余を給付する。
出典:『兼見卿記』同年月5・7・8日条,

天正3年 1575年 11月7日
織田信長青蓮院尊朝に新地として山城国粟田口72石と花園28石余を給付する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正3年 1575年 11月8日
織田信長が権大納言・右大将に任じられたことにつき公家衆が礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月11日
織田信長が鷹狩に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月14日
内大臣となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正3年 1575年 11月14日
織田信長岩村城(美濃国)に武田勝頼が攻め入ったとの報を受け、急ぎ岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

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