天正7年 1579年 5月3日 |
早朝、織田信長が安土城(近江国)に向けて京都を発つ。山中より坂本(近江国)を経由し、船にて安土城に帰城する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」 |
天正7年 1579年 5月10日 |
村井貞勝の命で禁裏北門の西に貫通を新造する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月11日 |
織田信長が安土城(近江国)の天主に移る。 |
出典:『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」 |
天正7年 1579年 5月21日 |
薄以継が西梅津に住宅を構え転居する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月21日 |
筒井順慶が春日社に参詣する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月25日 |
羽柴秀吉が海蔵寺砦を乗っ取る。 |
出典:『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」 |
天正7年 1579年 5月26日 |
山科言経が清水寺に参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月27日 |
織田信長が安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政、菅屋長頼、長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。 |
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条 |
天正7年 1579年 5月28日 |
安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論につき、日蓮衆側が5月27日付で宗論に敗れたことを認める起請文と連署状を堀秀政、菅屋長頼、長谷川秀一宛に提出したことを受け、その案文を村井貞勝に送り、正文の1通を知恩院に、もう1通を織田方で保管するとともに、洛中・洛外に触れ回るよう指示する。 |
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条 |
天正7年 1579年 6月1日 |
山科言経、冷泉為満が村井貞勝のもとに礼に訪れる。対面する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月2日 |
4日に行われる二条晴良の35日の御焼香に参列するため大乗院尋憲が上洛する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月4日 |
波多野秀治・秀尚・秀香が安土城(近江国)に送還され、織田信長の命により磔にされる。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 6月6日 |
簗田広正が死去する。 |
出典:- |
天正7年 1579年 6月9日 |
山科言経、上田孫四郎が誓願寺に参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月12日 |
山科言経が真如堂に参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月12日 |
山科言経が誓願寺に参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月12日 |
山科言経が誓願寺、真如堂に参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月13日 |
竹中重治が三木城(播磨国)の向城である平山陣所にて病死する。 |
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」 |
天正7年 1579年 6月18日 |
織田信忠が安土城(近江国)にいる父・信長のもとへ見舞いのため赴く。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 6月18日 |
姉聟の松尾兵部丞より使僧として祐乗坊が山科言経のもとを訪れる。兵部丞は義父・言継への香銭として100疋を贈る。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月19日 |
山科言経が因幡堂薬師堂にが参詣する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月20日 |
織田信長が上洛する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月20日 |
筒井順慶が奈良(大和国)に入る。一乗院尊政に馬を贈る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 6月20日 |
伊丹(摂津国)に在陣中の滝川一益、蜂屋頼隆、武藤舜秀、丹羽長秀、福富秀勝に、織田信長がハイタカミモト・小男鷹2を贈る。使者は青山与三。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 6月24日 |
織田信長が丹羽長秀に以前下付した珠光茶碗を召し上げ、代替として鉋切の腰物(銘長光)を下付する。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 7月3日 |
武藤舜秀が摂津国にて病死する。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」、『当代記』巻2同年月日条 |
天正7年 1579年 7月4日 |
権大納言となる。 |
出典:『系図纂要』「四辻」 |
天正7年 1579年 7月6日 |
安土城(近江国)にて相撲が行われる。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 7月7日 |
安土城(近江国)にて相撲が行われる。 |
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 1579年 7月7日 |
松平家忠が岡崎城(三河国)に出仕する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |