天正7年 1579年 4月12日 |
織田信長が、三木城(播磨国)攻めのための砦普請の検使として猪子高就、飯尾隠岐を遣わす。 |
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」 |
天正7年 1579年 4月17日 |
多賀谷修理亮が織田信長に星河原毛の馬を進上する。 |
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」 |
天正7年 1579年 4月18日 |
織田信長が塩川伯耆に銀子100枚を遣わす。使者は森蘭丸、中西権兵衛。 |
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」 |
天正7年 1579年 4月18日 |
母・陽春院の三周忌法要を修す。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月18日 |
荒木村重が有岡城(摂津国)より稲葉貞通の守る河原砦に足軽を出し攻める。塩川伯耆、氏家直昌が応戦する。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月23日 |
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康が石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月24日 |
高橋鑑種が死去する。 |
出典:- |
天正7年 1579年 4月25日 |
松平家忠が浜松城(遠江国)に向かうべく、深溝城(三河国)より出陣する。未刻(13-15時)、浜松城に登城する。 武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月25日 |
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月26日 |
織田信忠が三木城(播磨国)に砦を6ヶ所築くように命じる。その後、小寺政職の御着城(播磨国)を攻める。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月26日 |
夜、徳川家康が浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康は吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月27日 |
烏丸光康が死去する。 |
出典:『系図纂要』「烏丸」 |
天正7年 1579年 4月27日 |
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月28日 |
織田信忠が有馬郡・能勢郡に攻め入り、作毛を薙ぐ。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月28日 |
高篠郷(讃岐国)にて長宗我部元親勢の先陣である石川・金子・新居・曽我部等と羽床資載が戦い、資載が勝利する。 |
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」 |
天正7年 1579年 4月28日 |
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月29日 |
織田信忠が、父・信長の陣する古池田(摂津国)に戻り、播磨国の情勢を報告する。その後、信忠は帰国を許され、東福寺に入る。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月29日 |
松平家忠が徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 4月29日 |
古池田(摂津国)に陣取っていた織田信長のもとに、播磨国に赴いていた子・信忠が戻り、同国の情勢の報告を受ける。信長は信忠に岐阜城(美濃国)の帰城を許す。 荒木村重の有岡城(摂津国)攻めのため同城周辺に在陣していた不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近の帰城を許す。 有岡城への備えとして、塚口郷に丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝・忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興・元助・池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月29日 |
織田信長が有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝・忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興・元助・池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月29日 |
二条晴良が死去する。 |
出典:『多聞院日記』同年月30日条、『系図纂要』「二条家」 |
天正7年 1579年 4月29日 |
荒木村重の有岡城(摂津国)攻めのため同城周辺に在陣していた不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近が織田信長より帰城を許される。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月29日 |
高篠郷(讃岐国)にて長宗我部元親と羽床資載が戦い、元親が勝利する。 |
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」 |
天正7年 1579年 4月30日 |
織田信忠が岐阜城(美濃国)に帰城する。 |
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 1579年 4月30日 |
香川信景の勧めにより、羽床資載が長宗我部元親に降伏する。 |
出典:『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」 |
天正7年 1579年 4月30日 |
三河国衆の総勢が浜松城(遠江国)より三河国に帰国する。大将衆のみが浜松城に残る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月1日 |
織田信長が摂津国より上洛する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」 |
天正7年 1579年 5月1日 |
山科言経が二条屋敷にいた村井貞勝のもとへ礼に訪れる。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月2日 |
山科言経の妻と子・言緒が織田信長のもとに赴き、父・言継死去につき、山科言経への家領の安堵を請い認められる。ただし信長との面会は信長の顔に腫物ができていたためなし。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 1579年 5月2日 |
正親町木屋薬師堂西隣で火災が発生し、烏丸町西等で家17軒が焼失する。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |