天正10年 1582年 4月25日 |
青蓮院尊朝が安土城(近江国)に登城する。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正10年 1582年 4月25日 |
羽柴秀吉が冠山城(備中国)を攻撃し落城させ、城主の林重真・松田孫次郎をはじめ300名を討つ。 |
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号) |
天正10年 1582年 4月26日 |
午刻(11:00-13:00)、青蓮院尊朝が青蓮院に帰院する。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正10年 1582年 4月-日 |
伊達政宗が相馬氏攻めのため角田(陸奥国)に在陣する。 |
出典:『性山公治家記録』同年月日条 |
天正10年 1582年 春月-日 |
丹羽長秀が大坂城(摂津国)本丸を織田信長より預かる。 |
出典:『細川忠興軍功記』 |
天正10年 1582年 5月2日 |
羽柴秀吉が宮路山城(備中国)の水の手を断ち落城させる。また、賀茂城の端城に攻め入り落とする。その後、居城としていた亀石城に帰る。 |
出典:天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)、天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号) |
天正10年 1582年 5月3日 |
羽柴秀吉が河屋城を攻め落とす。また、備前国児島の内の郡年寄中に、命じていた縄を送ってくれたことを謝すとともに、冠山城・宮路山城(備中国)を落とし、かつ賀茂城の端城も落としたことを伝える。加えて縄200束の調達を依頼する。 |
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)、天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号) |
天正10年 1582年 5月8日 |
羽柴秀吉が高松城(備中国)を包囲する。 |
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号) |
天正10年 1582年 5月9日 |
織田信張が本願寺顕如に音信としてガンザウ桶2個を贈る。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月11日 |
田村清顕が、伊達輝宗・政宗父子の仲介により佐竹義重、蘆名盛隆と和睦できたことについて、輝宗に礼をする。 |
出典:(天正10年)5月11日付田村清顕書状(『伊達家文書』1-246・247号) |
天正10年 1582年 5月11日 |
神戸信孝が四国に渡海すべく、軍勢を率い住吉(摂津国)に入る。 |
出典:『信長公記』巻15(24)「阿波国神戸三七御拝領の事」 |
天正10年 1582年 5月14日 |
徳川家康、穴山梅雪が番場(近江国)に到着する。家康、梅雪のため丹羽長秀が番場に宿を設ける。また、長秀は岐阜城(美濃国)より安土城(近江国)に向かう織田信忠に対し番場にて一献を進上する。 |
出典:『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」 |
天正10年 1582年 5月15日 |
上杉景勝が天神山台(越中国)に居陣する。 |
出典:(天正10年)5月15日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2380号) |
天正10年 1582年 5月15日 |
徳川家康、穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』 |
天正10年 1582年 5月17日 |
織田信長が高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀、細川忠興、池田恒興、塩川吉大夫、高山重友、中川清秀に出陣を命じる。 |
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」 |
天正10年 1582年 5月17日 |
織田信長が高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀、細川忠興、池田恒興、塩川吉大夫、高山重友、中川清秀に出陣を命じる。 光秀は安土城(近江国)より坂本城(近江国)に帰城する。 |
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」 |
天正10年 1582年 5月18日 |
羽柴秀吉が得居通幸に高松城(備中国)を水攻めにしている旨を伝える。また、そのうちに瀬戸内海にて得居に警固船の動員を依頼するので、その心づもりでいるようにと伝える。 |
出典:天正10年5月18日付得居通幸宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-418号) |
天正10年 1582年 5月19日 |
羽柴秀吉が溝江長澄に備中国攻めのことや村上水軍衆が味方となっていることを伝える。うち高松城(備中国)攻めについては、「この城は平城であるので数年かけて普請をしていて堅くなっており、かつ三方が深田のため攻め口がないことから、周りに堤を築き、近くの川を切って水攻めにした」とし、さらに現状は「端城の土居に水が打ち寄せている状況」で「そのうち落城するだろう」と述べる。 |
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号) |
天正10年 1582年 5月20日 |
織田信長が丹羽長秀、堀秀政、長谷川竹、菅屋長頼に徳川家康、穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。 |
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」 |
天正10年 1582年 5月21日 |
徳川家康が上洛する。長谷川竹が家康を案内する。大坂(摂津国)にて家康をもてなすため、津田信澄、丹羽長秀が大坂に赴く。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条、『信長公記』巻15(28)「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」 |
天正10年 1582年 5月23日 |
大乗院尋憲が安土城(近江国)より奈良(大和国)に帰寺する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月24日 |
28日に四国へ出陣することになった神戸信孝に随行する木津甚五郎が被官衆に人夫を賦課する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月25日 |
大乗院尋憲が恒例の大般若経転読を行う。今夜よりいつものごとく船戸屋に参籠する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月26日 |
明智光秀が居城・坂本城(近江国)より出陣し、亀山城(丹波国)に入る。 |
出典:『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」 |
天正10年 1582年 5月27日 |
明智光秀が愛宕山威徳院(西坊)にて連歌会を催す。参加者は里村紹巴、里村昌叱、明智光慶、兼如、心前、愛宕威徳院(西坊)行祐、愛宕大善院(上坊)宿源、行澄、行澄。 |
出典:『明智光秀張行百韻』(『続群書類従』17輯上)、『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」 |
天正10年 1582年 5月27日 |
神戸信孝の四国出陣に供をする木津甚五郎が人夫を賦課する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月27日 |
筒井順慶が信濃・甲斐国攻めの際の奈良中人夫の入目500石全てを奈良へ配分する。また同戦時の立願として藤屋に参籠する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月28日 |
織田信長が上洛する。 |
出典:『多聞院日記』同年6月1日条 |
天正10年 1582年 5月29日 |
神戸信孝が三好康長の養子として阿波国に渡海するにあたり住吉(摂津国)に宿泊する。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 5月29日 |
徳川家康、穴山梅雪が堺を見物する。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |