天正10年 1582年 5月29日 |
織田信長が上洛し、本能寺に宿泊する。 |
出典:『信長公記』巻15(30)「信長公御上洛の事」 |
天正10年 1582年 5月-日 |
御茶屋を新たに造る。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正10年 1582年 6月1日 |
夜、明智光秀が重臣の明智秀満、明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。 |
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」 |
天正10年 1582年 6月2日 |
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。 信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。 信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。 |
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条 |
天正10年 1582年 6月2日 |
明智光秀が山岡景隆を勧誘するが、景隆はその誘いを断り、勢多橋を落として、居城・瀬田城(近江国)を自焼し、山中に逃亡する。 |
出典:『信長公記』巻15(34)「江州安土城御留守衆有様の事」 |
天正10年 1582年 6月2日 |
徳川家康が堺(和泉国)を発ち、宇治田原(山城国)に到着する。渥美友重が供奉する。 |
出典:『石川忠総留書』、『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項 |
天正10年 1582年 6月2日 |
本願寺顕如が織田信孝へ音信として太刀、馬代鳥目5000疋、道服1、帷子5を贈る。使者は平井越後。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
明智光秀が坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
5つ時分、堺より本能寺の変についての情報が鷺森(和泉国)にもたらされる。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
大和国衆が大安寺、辰市、東九条、法華寺辺りに陣取る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
細川忠興が高松城(備中国)攻めのため宮津城(丹後国)城外の犬堂にて軍勢を揃え明智光秀の出陣を待っていたところ、愛宕山下坊より織田信長が本能寺にて討たれたことを聞き、その菩提を弔うとしてすぐに出家する。 |
出典:『細川忠興軍功記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
本能寺の変により安土城(近江国)より上臈衆が立ち退くにあたりに城に火をかけることを提案するが、留守居・蒲生賢秀が「天下無双の御屋作り」を失うことを惜しみ、また金銀・名物を損じることがあっては世間の嘲笑を受けるといって、火をかけることを止める。 |
出典:『信長公記』巻15 同年月日条 |
天正10年 1582年 6月3日 |
徳川家康が宇治田原(山城国)を発ち、小川(近江国)の多羅尾光俊邸に宿泊する。 |
出典:『石川忠総留書』 |
天正10年 1582年 6月4日 |
明智光秀が安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。 4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。 |
出典:『多聞院日記』同年月5日条 |
天正10年 1582年 6月4日 |
本願寺顕如が信孝へ音信として遣わした平井越後が音信を届けず帰寺する。理由は、本能寺の変により信孝の軍勢が摂津へと陣替えとなったため。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月4日 |
明智光秀が安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。 羽柴秀吉と毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が起請文を交わす。誓約内容は、輝元・元春・隆景の待遇について、「公儀」=織田信長への執り成しをすること、そのうえで彼ら3人を見放すことはしないこと、互いに裏切ることをしないことの3点。 |
出典:天正10年6月4日付羽柴秀吉起請文写(『豊臣秀吉文書集』1巻-422号)、『多聞院日記』同年月5日条 |
天正10年 1582年 6月4日 |
羽柴秀吉と毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が起請文を交わす。誓約内容は、輝元・元春・隆景の待遇について、「公儀」=織田信長への執り成しをすること、そのうえで彼ら3人を見放すことはしないこと、互いに裏切ることをしないことの3点。 |
出典:天正10年6月4日付羽柴秀吉起請文写(『豊臣秀吉文書集』1巻-422号)、『多聞院日記』同年月5日条 |
天正10年 1582年 6月4日 |
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。 |
出典:- |
天正10年 1582年 6月4日 |
徳川家康が小川(近江国)を発ち、神山(近江国)、桜峠、丸柱(伊賀国)、柘植(伊賀国)、加太を経由し伊勢湾を渡航して三河国に帰還する。 |
出典:『石川忠総留書』 |
天正10年 1582年 6月5日 |
大坂(摂津国)にて神戸信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆が、明智光秀の聟・津田信澄を殺害する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月5日 |
青蓮院尊朝が本能寺の変後の混乱により『門葉記』ならびに潅具唐櫃を禁裏紫宸殿東方に移し、その他の雑具を上乗院里坊に移す。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正10年 1582年 6月5日 |
4日の大和国より筒井順慶の一手として明智光秀のもとに遣わした南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月5日 |
羽柴秀吉が中川清秀に織田信長・信忠父子が福富秀勝の働きにより膳所(近江国)に逃れ無事であることを伝える。そのうえで秀吉自身は姫路城(播磨国)に戻ることを伝える。清秀に書状を発した際、秀吉は備前国野殿におり、この日のうちに備前国沼まで戻ろうとしていることを清秀に伝える。 岡本良勝に日幡城(備中国)主・上原元祐の人質を預かり世話するように命じる。 |
出典:天正10年6月5日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-424号) |
天正10年 1582年 6月8日 |
安藤守就が死去する。 |
出典:- |
天正10年 1582年 6月9日 |
筒井順慶が予定していた河内国の打ち廻りを延期する。大和郡山城(大和国)に塩・米を入れる。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月9日 |
午刻(11:00-13:00)、羽柴秀吉が明石(播磨国)に入る。 織田信孝に書状を遣わし、明石に入った旨を伝えるとともに、洲本城(淡路国)に菅達長が入り蜂起したため、その討伐を10日にするので、11日に尼崎(摂津国)に入る旨を伝える。 洲本城に入城した菅達長の対処すべく、広田内蔵丞に、10日に明石から渡海し、洲本城を攻めるので参陣を促す。 船越景直を使者として遣わしてきた安宅信康に返書を出す。信康が菅達長の籠る洲本城を攻撃したことを賞し、もし達長が退城したならば報告するようにと伝える。また、10日に岩屋城まで渡海することを伝え、高田長左衛門を岩屋城(淡路国)の本丸に置くようにと指示する。 |
出典:天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-427号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-428号)、天正10年6月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-429号) |
天正10年 1582年 6月10日 |
筒井順慶のもとに遣わした明智光秀の家臣・藤田伝五郎が、大和郡山城(大和国)にて切腹する。 |
出典:天正10年6月10日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-430号)、『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月10日 |
山城国に遣わしていた筒井勢の一部が大和国に戻る。奈良では羽柴秀吉が近く上洛するので、明智光秀を裏切り秀吉と手を組むために撤兵したのではと噂される。 羽柴秀吉に同心する旨の起請文を発給する。使者は今中、村田。 大和郡山城(大和国)にて順慶が切腹したと噂される。後に、切腹したのは順慶ではなく藤田伝五郎と伝えられる。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月10日 |
羽柴秀吉が中川清秀に明智光秀が久我(山城国)あたりに在陣しているという風聞を伝えるとともに、11日には兵庫(摂津国)もしくは西宮まで進軍することを伝える。清秀には摂津国境界を固めるようにと伝える。(秀吉書状) 筒井順慶が秀吉に同心する旨を誓った起請文を発給する。(『多』) |
出典:天正10年6月10日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-430号)、『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 1582年 6月11日 |
本願寺顕如が明智光秀に使者を遣わす。ただし、光秀戦死につき使者は光秀のもとに届かず。 |
出典:『鷺森日記』同年月日条 |