人 物 史

丹羽氏次 にわ うじつぐ
生 没 年天文19年(1550)-慶長6年(1601)3/19
出 身尾張国岩崎幼 名-
別 称源六郎、勘助
法 名-
戒 名大翁道用
丹羽氏勝-
兄 弟 姉 妹丹羽氏次丹羽氏重、女(加藤忠景の妻)
配 偶 者鈴木重信の娘、加藤忠景の娘
丹羽氏資、丹羽氏信、娘(小坂雄吉の妻)
官 位-
役 職-
城 郭岩崎城(尾張国)
参 考 文 献『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏次」の項
関 連 デ ー タ丹羽氏次の関連文化財
丹羽氏次 年表
天文19年 1550年 -月-日 1歳
丹羽氏次が尾張国岩崎にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏次」の項

天文20年 1551年 -月-日 2歳
横山(尾張国)にて織田信長丹羽氏識氏勝父子が戦い氏識・氏勝父子が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項

弘治1年 1555年 10月23日 6歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 9歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 11歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄8年 1565年 6月19日 16歳
祖父・氏識が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項

元亀1年 1570年 4月23日 21歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 24歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 33歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 4月9日 35歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 6月22日 35歳
織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)を攻め、同城を落とす。この城攻めに徳川家康勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、同巻第26「松平康安」の項、同巻第54「松平定勝」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項

天正18年 1590年 7月13日 41歳
豊臣秀吉小田原城(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した織田信雄の所領を改易する。
秀吉が加藤光泰に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正18年 1590年 -月-日 41歳
子・氏信が生まれる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 43歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 47歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 11月22日 48歳
父・氏勝が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

慶長5年 1600年 6月16日 51歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 51歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 51歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 3月19日 52歳
丹羽氏次が死去する。
出典:-

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