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慶長20年 1615年 閏6月26日
二条城(山城国)にて真言論議が行われる。題は「肉身を指て即身成仏歟、肉身不捨成仏歟」。講師は高室院。
浅野長晟徳川家康に対面する。
喜連川頼氏が家康に礼をする。家康は座を立ち、頼氏に蔀を渡す。
伯耆国に隠匿していた仙石秀範の子息(11歳)が捕縛され、大路を引き回しのうえ、六条河原(山城国)にて処刑される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月27日
二条城(山城国)にて徳川家康が舞楽を興行する。徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣松平忠直前田利常伊達政宗松平忠輝島津家久毛利秀就毛利秀元田中忠政森忠政京極高知京極忠高池田利隆山内忠義浅野長晟藤堂高虎生駒正俊鍋島勝茂加藤明成稲葉典通有馬豊氏小笠原忠真等が出席する。5月7日の天王寺口の戦いで重傷を負った忠真は遅れて席入りしたが、家康が諸将に「わが鬼孫なり」と紹介し、興行が始まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原忠真」の項

慶長20年 1615年 閏6月28日
源誉存応二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに出仕する。閏6月29日に関東へ戻るので暇乞いをする。
了的、廓山が彦坂元正の赦免を願い出るが、家康は退ける。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月29日
本多正純成瀬正成安藤直次二条城(山城国)にいる徳川家康のもとで織田信重と織田信則の訴訟について家康の意向を問う。家康は信重の主張は認められないとして信重の所領没収を命じる。
黒船が日本に着岸したとの報告が長崎(肥前国)より家康のもとにもたらされる。後藤光次が家康に伝える。
夜、古田重然の従者・宗喜を車の上に磔にして大道にて引き回したうえで牢に入れる。理由は、家康の出陣につき、島津家久が豊臣家に一味し一揆を起こしたと偽り事を言いふらし、京都(山城国)の放火を企てたため、4月28日に定まっていた家康の出陣が5月5日に延期となったためとされる。この事件について、板倉勝重が宗喜を捕らえ、拷問したとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月1日
徳川家康二条城(山城国)にて能を催す。徳川秀忠が二条城に赴き、能に参会する。公家衆、大名衆も出仕。未刻(13-15時)、秀忠が伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月2日
以心崇伝二条城(山城国)にいる徳川家康に武家諸法度の草案を見せる。家康は、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠に見せるようにと指示する。
南光坊天海が家康のもとに出仕し、天台之法問を家康に伝授する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月3日
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、武家諸法度のことについて相談する。
真言論議が行われる。題は「清浄行者不入涅槃、破戒比丘不堕地獄」。講師は宝性院。無量寿院、遍明院、多聞院が参加する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月3日
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、武家諸法度のことについて相談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月4日
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「三葉示同」。講師は月山寺。正覚院、南光坊天海、陽成院、恵心院、竹林房、法輪寺、恵光坊等。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに赴く。鱸を進上する。
家康が梅若大夫を召し出し、能装束1縮を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月4日
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「三葉示同」。講師は月山寺。正覚院、南光坊天海、陽成院、恵心院、竹林房、法輪寺、恵光坊等。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月5日
徳川家康二条城(山城国)の南殿に出座する。源氏物語抄を公家衆に配分する。家康は仮名を付すようにと日野唯心、三条、飛鳥井、冷泉父子、烏丸に命じる。
土井利勝が家康のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月6日
二条城(山城国)にて真言論議が行われる。
松平清正大坂城(摂津国)東北櫓の跡を掘り起こしたところ黄金43枚、竹流し金数十、金盆、金炉、金箸、金壺の諸器を発見する。清正は松平正久後藤光次を介して徳川家康に進上する。この金器は淀殿の玩弄品であるとされる。家康は秀忠のいる伏見(山城国)に持参するようにと伝え、清正に下賜することとなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月7日
早朝、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに諸大名が出仕する。秀忠は武家諸法度13ヶ条を諸大名の前で以心崇伝に読ませる。
伏見城にて能が催される。
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに南光坊天海日野唯心が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月8日
伏見城(山城国)にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月8日
永平寺(越前国)の長老が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
冷泉為満が家康のもとに赴く。家康は為満に源氏物語の奥入について問う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月10日
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は7月27日に駿府城(駿河国)に向けて京都(山城国)を立つ予定であるが秀忠の京都出立はその前か後ろかを好きにすようと伝える。
家康が以心崇伝、多聞院を召し出し、高野山(紀伊国)に悪僧がおり、宝性院の什物を隠匿しているとの噂があるので捜索するようにと命じる。
家康が板倉勝重を召し出し、朝廷のことについて、関白には関白の役、弁には弁の役がありそれぞれ奏すようにし、決して伝奏を介さなければならないということがないようにせよと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月11日
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、奥座間にて対面する。本多正信本多正純が同席する。7月19日に秀忠は江戸城(武蔵国)に戻るべく京都(山城国)を発つと述べる。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月12日
総持寺(能登国)が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日
永平寺(越前国)・総持寺(能登国)が曹洞宗法度への印を徳川家康に求める。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日
徳川家康蜂須賀蓬庵に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日
徳川家康井伊直孝に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日
伏見城(山城国)にて徳川秀忠が諸大名に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月14日条

元和1年 1615年 7月15日
二条城(山城国)にて徳川家康京極高知京極忠高鍋島勝茂島津家久などに暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月15日
細川立孝が豊前国小倉にて生まれる。
出典:『綿考輯録』巻20、『寛政重修諸家譜』巻第「細川立孝」の項

元和1年 1615年 7月16日
黒田忠長二条城(山城国)にて徳川家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 7月17日
召しにより小笠原忠真伏見城(山城国)に登城する。幕府は小笠原秀政の遺領を忠真が相続することを認める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項

元和1年 1615年 7月17日
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

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