慶長20年 1615年 6月20日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。古田重然が所持していた勢高肩衝を家康は秀忠に遣わす。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 6月22日 |
徳川秀忠が佐竹義宣の旅亭に使者として安藤重信を遣わし、大坂冬の陣で速やかに兵を率い参陣したことを賞し、久保田城(出羽国)への帰国を許すとともに銀200貫目を下賜する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 |
慶長20年 1615年 6月27日 |
大野道犬が長谷川藤広をして堺(和泉国)に移送される。4月28日の堺の焼失は道犬の放火によるものであるため、堺にて処刑せよとの徳川家康の命が出る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
元和2年 1616年 1月19日 |
池田忠雄が従四位下・侍従に叙位・任官。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項 |
慶長20年 1615年 6月28日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康・秀忠は池田忠雄を召し出し、兄・忠継の遺領相続を認める。ただし、播磨国宍粟郡38000石は輝澄に、同国赤穂郡35000石は政綱に、同国佐用郡25000石は輝興に分与し、忠雄は備前国浅口郡・窪屋郡・下道郡・都宇郡の315000石を領し、淡路国は幕府に返上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項、同巻第265「池田忠雄」の項、同巻第266「池田輝澄」の項 |
慶長20年 1615年 6月29日 |
豊臣秀頼が所持していた刀(銘 骨喰吉光)を本阿弥光徳が探し出し、徳川家康に献上する。家康は光徳に下賜するも、光徳は徳川秀忠に献上する。秀忠は光徳に黄金10枚を賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 6月30日 |
徳川家康が二条城(山城国)の前殿に出座する。金地院崇伝、南光坊天海、智積院、勧学院が侍る。林羅山が駿府(駿河国)より持参した新板大蔵経を見物する。文字の鮮明さを皆が称える。印刷した125部の1部ずつを諸寺に配布するよう家康が命じる。 天海が天台宗以外の僧が紫衣を着するのを禁じ、僧正にも任じないようにすべきと家康に進言する。これを聞き多聞院が、家康にそのようなことを進言するのは控えるべきとし、すでに空海が紫衣を着しており、また高野山、東寺、醍醐寺の僧は僧正に任じられた僧がすでにおり、昔からそれが続いていると反論する。天海がその反論に口を閉ざす。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月2日 |
池田利隆・忠雄兄弟が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。本多正純が取り次ぐ。利隆・忠雄は、徳川秀忠の命により池田忠継の遺領である備前国を忠雄が拝領したことへの礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月3日 |
酉刻(17-19時)、金森可重が死去する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月3日 |
徳川秀忠が蜂須賀至鎮に淡路国を給付する。 秀忠が長谷川藤広を小豆島(讃岐国)の代官とする。堺(和泉国)と長崎(肥前国)を往来する船にとって要所であるため、藤広が代官となる。 秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに土井利勝、伊丹康勝を遣わす。利勝・康直は、漳州よりの船が紀伊国に着岸したため、浅野長晟が調査したところ砂糖を積載していたので、検使を遣わすべきか否かの判断を請う。後藤光次が家康に取り次いだところ、家康は自由に商売することを許すと返答する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月4日 |
蜂須賀至鎮が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。家康は至鎮に冬の陣以来、身命を惜しまず無二の忠節を尽くしたことを賞す。至鎮は、徳川秀忠の命により淡路国を拝領したこと、身に余る厚恩であると返答する。至鎮の淡路国拝領は、淡路国を領していた池田忠雄が備前国を相続することになったため、また忠雄の舅が至鎮だったことによる。 細川忠興が家康に領国帰国につき暇乞いをする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月6日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥之座にて閑談する。本多正信、本多正純が同席する。 二条城前殿で真言論議が行われる。題は「十悪起不起、身三口四意三、同時起耶、各別耶」。宝性院、無量寿院、遍明院、正智院、金剛三昧院、如意輪寺、庵室、北室院が参加。講者は多聞院。家康、秀忠、徳川義俊、徳川頼宣、松平忠直、伊達政宗、前田利常、京極忠高、藤堂高虎、正信、日野唯心も参席する。 秀忠が南禅寺金地院末寺の真観寺(河内国)に1000石を給付する。 未刻(13-15時)、徳川秀忠が伏見城(山城国)に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月8日 |
廓山が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。浄土宗法度の案を持参する。家康は廓山に大蔵一覧を1部賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月8日 |
伏見城(山城国)にて、徳川秀忠が飛鳥井父子の蹴鞠を観覧する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月9日 |
徳川家康が二条城(山城国)の前殿に出座する。家康は織田有楽に対面し、大坂城(摂津国)攻めで失われてしまった茶入の形を問う。 金地院崇伝が久遠寺(甲斐国)より取り寄せた『本朝文粋』2部について、それを五山僧に書写させていたが、第1巻に不足のところがあったためが、林羅山が京都(山城国)にて同書を探し出し、久遠山本を補う。家康は羅山の働きを賞す。 松浦肥前守が高麗鴇を家康に献上する。 松本(信濃国)の山より銀・鉛が産出したとの報告が家康にもたらされる。家康は領主に採掘を命じる。担当は松平正久、伊丹康勝。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月10日 |
青山石見守が豊臣秀頼との内通の疑いにより、切腹を命じられ、伏見(山城国)にて切腹する。検使は青山忠俊。 |
出典:『駿府記』同年月11日条 |
慶長20年 1615年 閏6月10日 |
本多忠政、忠刻、政朝が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。忠政の弟・忠朝が5月7日の天王寺・岡山の戦いで戦死したため、政朝が忠朝の娘・千代を娶り大多喜(上総国)50000石を相続するようにと徳川秀忠の命があり、その礼として家康にもとに赴く。本多正純が披露する。 松平忠輝・松平忠昌が家康に対面する。 松浦久信が、父・鎮信の遺物の刀1腰と銀200枚を家康に献上する。正純が披露する。 徳川義俊が暑気患いのため、成瀬正成と興安が家康にその旨を報告したところ、家康は六和湯を義俊のために調進する、義俊はやや回復する。 片桐貞隆が伽羅1折を家康に献上する。 島津家久が鉄砲薬袋・火縄10筋を家康に献上する。火縄は薩摩国所産の唐竹をもとに綱にしたものという。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月12日 |
徳川秀忠が溝口外記父子を改易する。 秀忠が大坂城(摂津国)に籠城していた北信景の京都での宿所だった肝煎を罪科に処す。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月15日 |
徳川家康が二条城(山城国)の南殿に出座する。諸侍、公家衆が家康に出仕する。 松平忠輝が家康に対面する。 南光坊天海、金地院崇伝、その他の天台宗僧、真言宗僧が家康に対面する。 法隆寺阿弥陀院の遺物である唯識論、諸疏等の書籍1箱を中井正清が崇伝を介し家康に見せる。 織田常真が家康に礼をする。 徳川頼宣が伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、対面する。未刻(13-15時)、頼宣は二条城に戻る。徳川義俊は暑気により股に腫物ができていたため伏見城行きを取りやめる。 安藤重信が秀忠の使者として二条城(山城国)に赴く。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月16日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥座にて閑談する。本多正信が参席する。未刻(13-15時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。 松平忠輝、松平忠直、松平乗寿、譜代衆が家康のもとに出仕する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月17日 |
二条城(山城国)にて浄土法問が行われる。題は「難易二道」。源誉存応、呑龍、了的、廓山、長流、理益など12名が参加する。一乗院、青蓮院、大乗院、公家衆、伊達政宗、藤堂高虎、黒田忠之、池田利隆、冷泉中納言が見物する。 徳川家康が大坂城(摂津国)攻めの際、逃亡した者をひとりずつ召し出し、どこにいたかを尋ねる。尋問を受けた者は申し開きをする。 徳川秀忠の使者として永井尚政が二条城にいる家康のもとに赴き、大鱸1疋を献上する。 家康が7月13日に改元すること伝奏に伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月18日 |
井伊直孝が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに礼に赴く。16日に徳川秀忠が直孝を侍従に任じることを約したことへの礼という。家康は大坂城(摂津国)攻めにおける直孝の武功を賞し、佐和山(近江国)近辺にて長浜領50000石を加増し、加えて金銀分銅を賜う。 二条城にて家康が諸士に対面する。 金地院崇伝、天海、竹林坊が家康のもとを訪れ、仏法について雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月18日 |
井伊直孝が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに礼に赴く。16日に徳川秀忠が直孝を侍従に任じることを約したことへの礼という。家康は大坂城(摂津国)攻めにおける直孝の武功を賞し、佐和山(近江国)近辺にて長浜領50000石を加増し、加えて金銀分銅を賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月18日 |
金地院崇伝、天海、竹林坊が、二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、仏法について雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月19日 |
松平定勝、伊達政宗、藤堂高虎が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに出仕する。 松平忠直、前田利常が大坂城(摂津国)攻め軍功により参議に、藤堂高虎は四位に叙されることになる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月20日 |
蜂須賀蓬庵が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。本多正純が取次。蓬庵が刀・脇差を家康に献上する。松平正久が受け取る。家康は蓬庵の早々の上洛を称す。蓬庵は、子・蜂須賀至鎮よりすぐに上洛して礼をするようにといわれていたが、阿波国は波が高く渡海が延引したと述べる。また、淡路国の拝領につき、由緒のある国を得て厚恩余りある旨を述べる。家康は至鎮の大坂城(摂津国)攻めでの忠節を賞すとともに、嫡孫聟でもあるので公達と同じ扱いであることを述べる。蓬庵は感涙を抑えて退出する。 松平忠直が参議任官の礼のため、家康のもとを訪れる。忠直家臣の本多成重が飛騨守になることが決まる。 伊達政宗、前田利常、藤堂高虎が家康のもとを訪れ官位昇進の礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月21日 |
辰刻(7-9時)、徳川秀忠が施薬院宗伯の邸宅に入る。宗伯が秀忠に膳を献じる。徳川義俊、徳川頼宣が秀忠とともに宗伯邸に入る。秀忠は宗伯に黄金10枚・帷子10領を賜う。広橋大納言、三条大納言が、院使の阿野実顕が秀忠のもとに参る。巳刻(9-11時)、秀忠が参内する、後水尾天皇に銀1000枚を献上する。秀忠に義俊、頼宣、松平忠直、伊達政宗、井伊直孝、藤堂高虎、吉良義弥、酒井家次、酒井忠世、土井利勝、安藤重信、本多正勝、本多忠純、青山忠俊、内藤清次、水野忠元、井上正就、酒井忠正、鳥居讃岐守、神尾守世、青山幸成、松平清正、本多忠政、戸田氏鉄、飛鳥井、冷泉、六条、烏丸中納言、広橋弁、山科、難波、烏丸弁。 午下刻(12時)、秀忠は院参する、後陽成上皇に銀300枚・綿500把を、女院に銀100枚・綿300把を献上する。未刻(13-15時)、秀忠は宗伯邸に戻り、伏見城(山城国)に帰城する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月22日 |
伝奏が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、閏6月21日の徳川秀忠の参内について礼をする。家康は後水尾天皇に『本朝文粋』1部を伝奏を介し進上する。 島津兵庫頭の使者が家康のもとを訪れ、緞子10巻を献上する。島津家久が家康に対面する。 片桐孝利が家康に礼をする。銀300枚、父・且元の遺物の刀・脇差・茶壺を献上する。本多正純が取次。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月23日 |
二条城(山城国)にて真言論義が行われる。題は「十悪同時断歟、漸々断歟」。講師は遍明院。宝性院、無量寿院、如意輪寺、性智院、金剛三昧院、多聞院、庵室、北室院、釈迦門院が参加する。 伊達政宗が定家自筆古今集を徳川家康にみせる。冷泉為満、日野唯心もその場に居合わせる。政宗は唯心を通じて、家康が所望するならば進上すると家康に伝えるが、家康は「玩弄之慰」みにせよとして政宗に返却する。 織田信包の遺跡相続について、訴えをおこしていた子・信重の非を、相続した信則が訴える。この件につき、分部光信、長野友秀が信則を支持する旨を述べる。家康は信包の遺言があるので、信重の訴えを理がないとして退ける。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 閏6月25日 |
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「戒定恵三学備て即身成仏歟、戒法はかりにて成仏歟」。講師は実報院、精義は恵心院。 東寺宝護院が『果宝無尽蔵』を家康のもとに持参する。以心崇伝が取り次ぐ。 南光坊天海が家康に天台法問を伝授する。 家康が福島高晴の居城・宇陀城(大和国)の破却を小堀政一、中坊左近に命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |