人 物 史

柳沢元政 やなぎさわ もとまさ
生 没 年天文5年(1536)-慶長18年(1613)5/5
出 身-幼 名-
別 称新三郎、新右衛門
法 名元政
戒 名-
柳原新右衛門-
兄 弟 姉 妹柳沢元政
配 偶 者小川氏の娘
柳沢景祐、柳沢元吉
官 位監物
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第6輯 刊本
関 連 デ ー タ-
柳沢元政 年表
天文5年 1536年 -月-日 1歳
柳沢元政が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

弘治1年 1555年 10月23日 20歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 23歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月19日 30歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 34歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 34歳
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 34歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

元亀1年 1570年 4月23日 35歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 3月29日 38歳
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 4月27日 38歳
足利義昭織田信長の和睦が成立する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月3日 38歳
午刻(11-13時)、足利義昭が御所を退き槙島城(山城国)に移る。御所には日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月10日 38歳
二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月12日 38歳
柴田勝家の交渉により二条城(山城国)に籠城していた三淵藤英が退城する。藤英は伏見(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 38歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。
織田信長勢:明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝細川忠興
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月18日 38歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月20日 38歳
足利義昭三好義継のいる若江(河内国)へ移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 38歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 47歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

文禄1年 1592年 12月8日 57歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 10月2日 58歳
柳沢元政が従五位下・監物に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

慶長1年 1596年 10月27日 61歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 8月28日 62歳
足利義昭が大坂(摂津国)にて死去する。
出典:『鹿苑日録』同年月29日条

慶長3年 1598年 8月18日 63歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長3年 1598年 -月-日 63歳
子・元吉が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項

慶長18年 1613年 5月5日 78歳
柳沢元政が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

正保3年 1646年 6月11日 
柳沢元吉が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項

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