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天文18年 1549年 6月23日
三好長慶が中島城(摂津国)にて軍評定を開く。十河一存細川晴元のいる三宅城(河内国)の攻撃を主張するが、主討ちになるとして長慶が退ける。
出典:『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」

天文18年 1549年 6月23日
三好宗三が「川舟を 留て近江の 勢もこそ 問んともせぬ 人を待かな」と六角定頼勢を待つ歌を詠む。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文18年 1549年 6月24日
十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。
出典:『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、

天文18年 1549年 6月25日
六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月27日
24日の江口の合戦で三好長慶に敗れた細川晴元が、足利義晴義藤と合流し、近衛晴嗣聖護院道増、大覚寺義俊、三宝院義尭、久我晴通とともに京都を脱し慈照寺に逗留する。晴元は東山葛岡に陣取る。
義晴、義藤、晴元、六角義賢が長慶への対応を協議する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日
足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日
三好長慶が商売人中宛に諸口雑夫料については土御門有脩の知行であるので所務を有脩に納入するよう伝える。
出典:天文18年6月28日付三好長慶書状(「宮内庁書陵部蔵土御門家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-237号)

天文18年 1549年 6月-日
三好長慶が賀茂社境内および所々散在に三好勢の乱入狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年6月日付三好長慶禁制(「賀茂別雷神社文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-239号)

天文18年? 1549?年 7月11日
三好長虎が諸口下代に雑務料のことについて公物・地子銭を一旦預かるようにと伝える。
出典:天文18年カ7月11日付三好生長書状(「宮内庁書陵部所蔵土御門家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-241号)

天文18年 1549年 7月-日
十河一存大山崎(山城国)に十河勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付十河一存禁制(「離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-249号)

天文18年 1549年 7月-日
三好長慶清水寺成就院に軍勢の乱妨、無理な要求をすること、矢銭・兵糧米の徴収を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「成就院文書」『清水寺史』3巻)

天文18年 1549年 7月-日
三好長慶が村雲町の浄福寺に三好勢の乱妨狼藉、謂れのない課役の賦課、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「浄福寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-244号)

天文18年 1549年 7月-日
三好長慶が本能寺に三好勢の乱入狼藉、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「本能寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-246号)

天文18年 1549年 7月-日
三好長慶が東山禅林寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「禅林寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-247号)

天文18年 1549年 7月-日
三好長慶が金蓮寺に三好勢の乱入狼藉、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「金蓮寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-248号)

天文18年 1549年 7月-日
六角定頼が摂津国にて細川晴元が死亡したと聞き、山崎(山城国)まで軍勢を進めるが、無事であることを知り京都に戻る。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条

天文18年 1549年 8月24日
三好長慶伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)を落とすため伊丹城への向城を築く。城の東は森本に池田長正、南は恒富前田城に淡路国衆、西は御願塚に三好勢、北西は小屋城に小川式部丞を配置する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文18年 1549年 8月27日
禁裏御料所内蔵寮料陸路河上四方八口率分役所について、今村慶満が押領していることを山科言継三好長慶に訴える。
出典:『言継卿記』同年月日条、天文18年8月27日付山科言継書状写(『言継卿記』『戦国遺文 三好氏編』第1巻-251・252号)

天文18年 1549年 8月27日
山科言継が長慶の勝利を祝し太刀1腰を長慶に贈る。
禁裏御料所内蔵寮料陸路河上四方八口率分役所について、今村慶満が押領していることを言継が長慶に訴える。
出典:『言継卿記』同年月日条、天文18年8月27日付山科言継書状写(『言継卿記』『戦国遺文 三好氏編』第1巻-251・252号)

天文18年 1549年 9月12日
昼、盛田宗兵衛が万代屋道安、木戸弥三左衛門、津田宗達を招き茶会を催す。
出典:『宗及茶湯日記』「茶湯幷唐物拝見之事」同年月日条

天文18年 1549年 9月25日
高野山大塔勧進が本願 良舜の代理として甲斐国八幡を訪れる。
出典:『王代記』天文18年条

天文18年 1549年 9月25日
朝、留嶋四左が津田宗達、盛田宗兵衛、木戸新を招き茶会を催す。
出典:『宗及茶湯日記』「茶湯幷唐物拝見之事」同年月日条

天文18年 1549年 9月30日
高野山大塔勧進(本願 良舜の代理)が甲斐国八幡を発ち、甲斐国府中に戻る。
出典:『王代記』天文18年条

天文18年 1549年 10月7日
朝、木戸新が津田宗達、盛田宗兵衛、四左を招き茶会を催す。
出典:『宗及茶湯日記』「茶湯幷唐物拝見之事」同年月日条

天文18年 1549年 10月7日
大石定久が死去する。
出典:-

天文18年 1549年 10月8日
小笠原長棟が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長棟」の項

天文18年 1549年 10月10日
三好長慶が六条若宮八幡宮領の所々散在当知行分について領知を認める。
出典:(天文18年)10月10日付三好長慶書状(「若宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-254号)

天文18年 1549年 10月14日
三好長慶山崎(山城国)にて三宝院義堯と対面する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文18年 1549年 10月20日
松永長頼が山城国両岡内天龍寺領長井荘の下司職に補任されたことをうけ同寺出官禅師に請状を発給する。
出典:天文18年10月20日付松永長頼書状(「天龍寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-256号)

天文18年 1549年 10月26日
足利義晴が中尾城(山城国)の普請を始める。(『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」では28日)
出典:『萬松院殿穴太記』

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