天正6年 1578年 11月2日 |
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月2日 |
武田勝頼勢が、小山(遠江国)、相良(遠江国)方面に移る。松平信康は馬伏塚に布陣し、徳川諸勢は柴原に布陣する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月3日 |
酉刻(17-19時)、遠江国にて地震が起こる。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月3日 |
荒木村重の謀反につき、織田信長が安土城(近江国)に子・神戸信孝、稲葉一鉄、不破光治、丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 1578年 11月3日 |
武田勝頼が、横須賀城(遠江国)の向かいまで軍勢を出す。徳川家康は横須賀城近くにて総勢で勝頼に備える。武田勢は高天神城(遠江国)に撤退する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月4日 |
二条の御殿に滞在中の織田信長が村井貞勝を朝廷につかわし本願寺顕如との和睦仲介を依頼する。 |
出典:『立入左京亮入道隆佐記』 |
天正6年 1578年 11月4日 |
夜、遠江国にて地震が起こる。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月4日 |
武田勝頼勢の物見が横須賀城(遠江国)に現れる。徳川家康は小笠に赴く。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月6日 |
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月7日 |
島津義久が大隅八幡宮に参籠し、高城(日向国)を攻めている大友勢の調伏祈願をする。 |
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」 |
天正6年 1578年 11月7日 |
島津忠恒が日向国諸県郡加久藤城にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項 |
天正6年 1578年 11月7日 |
松平家忠のもとに山崎(尾張国)にいる水野忠分より飛脚が到来し、荒木村重が織田信長に敵対したことを伝える。また藤太は家忠に音信として鱈2本を贈る。家忠は平岩親吉にその鱈を贈る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月9日 |
織田信長が荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月9日 |
松平家忠が酒井忠次のもとに赴く。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月-日 |
島津義久が大友勢に攻められている高城(日向国)の山田有信を救援すべく、領内の15-60歳の者を動員し、内城(薩摩国)を軍勢40000にて発ち、佐土原(日向国)に着陣し、同地を本陣とする。 |
出典:『豊薩軍記』巻2「義久佐土原著陣並大友方軍評定之事」 |
天正6年 1578年 11月10日 |
織田信長が荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。 |
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月11日 |
羽柴秀吉が黒田職隆に、11月10日、織田信長が荒木村重討伐につき高槻(摂津国)に到着したこと、高槻城(摂津国)を包囲したところ城主の高山重友が信長に降伏したこと、滝川一益・稲葉良通・安藤守就・氏家直昌・武藤が郡山(摂津国)に陣取り砦を築くことになったこと、職隆が村重に与同せず信長に逆らわなかったことは竹中重治より聞いたので秀吉より信長に伝えたところ信長は喜んでいたことを伝える。 |
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号) |
天正6年 1578年 11月12日 |
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」 |
天正6年 1578年 11月12日 |
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月13日 |
阿部正勝が松平家忠に掛川(遠江国)に移るよう伝える。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月14日 |
滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄、羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。 同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠、北畠信雄、神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月14日 |
大友宗麟が臼杵城(豊後国)に帰城する。 |
出典:『豊薩軍記』巻2「豊州勢敗北並田北三郎兵衛事」 |
天正6年 1578年 11月14日 |
武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月14日 |
松平家忠が風吹より掛川・益田(遠江国)まで移る。武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月15日 |
織田信長が郡山(摂津国)に陣取る。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月15日 |
武田勝頼勢が青島に陣取る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月16日 |
高山重友が郡山(摂津国)に在陣中の織田信長のもとへ赴く。 |
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 1578年 11月17日 |
武田勝頼勢が島田に攻め入る。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正6年 1578年 11月18日 |
起請文を望む上杉景勝に対し、武田勝頼が起請文を作成し富永清右兵衛尉の目の前で血判したこと、あわせて景勝と関係を密にしたきくことを景勝に伝える。 |
出典:(天正6年)11月18日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1718号) |
天正6年 1578年 11月18日 |
織田信長の命により、津田信澄を茨木城(摂津国)への抑えとして置き、惣持寺(摂津国)寺中の要害普請に越前衆の不破光治、前田利家、佐々成政、金森長近、日根野備中、日根野弥次右衛門、原長頼をあたらせる。 |
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事 |