人 物 史

九条兼孝 くじょう かねたか
生 没 年天文22年(1553)11/20-寛永12年(1635)1/17
出 身-幼 名-
別 称-
法 名円性
戒 名-
二条晴良
九条稙通[養父]
位子(伏見宮貞敦親王の娘)
兄 弟 姉 妹九条兼孝二条昭実義演鷹司信房
配 偶 者高倉煕子(高倉永家の娘)
九条幸家、増孝、娘(八条宮智仁親王の妻)
官 位-
氏 族 門 流藤原北家九条家
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
九条兼孝 年表
天文22年 1553年 11月20日 1歳
九条兼孝が生まれる。
出典:『系図纂要』「九条家」

弘治1年 1555年 10月23日 3歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 6歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 8月20日 6歳
弟・義演が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 -月-日 9歳
権中納言に任官。
出典:『系図纂要』「九条家」

永禄8年 1565年 10月25日 13歳
弟・鷹司信房が生まれる。
出典:『系図纂要』「鷹司家」

永禄8年 1565年 11月22日 13歳
権大納言に任官。
出典:『系図纂要』「九条家」

永禄12年 1569年 11月27日 17歳
右近衛大将に任官。
出典:『系図纂要』「九条家」

元亀1年 1570年 4月23日 18歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 21歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 2月24日 22歳
右大臣に就任する。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正3年 1575年 11月4日 23歳
左近衛大将に任官。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正4年 1576年 4月10日 24歳
未刻(13-15時)、二条晴良昭実父子が報恩寺に造作した屋敷に移る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 24歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月21日 24歳
左大臣に就任する。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正5年 1577年 11月19日 25歳
内覧となる。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正6年 1578年 12月13日 26歳
関白に就任する。藤氏長者となる。
出典:『系図纂要』「九条家」

天正7年 1579年 4月29日 27歳
父・二条晴良が死去する。
出典:『系図纂要』「二条家」

天正7年 1579年 11月22日 27歳
織田信長が誠仁親王を猶子とし、二条御新造に住まわせる。この移徙に際し、近衛信基九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房が二条御新造に先入りする。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正10年 1582年 4月8日 30歳
男子が生まれる。
出典:『多聞院日記』天正11年5月21日条

天正11年 1583年 4月14日 31歳
天正10年4月8日に生まれた男子が死去する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 3月6日 32歳
夕方、九条兼孝が奈良(大和国)に到着する。
出典:『多聞院日記』同年月7日条

天正12年 1584年 3月17日 32歳
夕方、九条兼孝が峯寺(大和国)より奈良(大和国)に戻る。
出典:『多聞院日記』同年月18日条

天正13年 1585年 7月11日 33歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正14年 1586年 2月1月19日日 34歳
子・幸家が生まれる。
出典:『系図纂要』「九条」

天正14年 1586年 11月1日 34歳
九条兼孝が上洛するため大坂を発つ。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正16年 1588年 4月16日 36歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「浪風も 吹しづまりて 松高き やまとしまねの 四方の浦々」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

文禄1年 1592年 12月8日 40歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 44歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月17日 45歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長5年 1600年 12月19日 48歳
関白・左大臣に再任する。
出典:『系図纂要』「九条家」

慶長7年 1602年 2月19日 50歳
摂関家の九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房、門跡の妙法院常胤、三宝院義演、梶井宮承快、青蓮院尊純、随心院増考、伏見宮邦房の名代・庭田重定、覚深の名代・亮淳とともに徳川家康に礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 11月8日 52歳
八条宮智仁親王に嫁いだ娘が死去する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 11月18日 52歳
8日に亡くなった九条兼孝の娘の葬儀が東福寺で執り行われる。
兼孝は出家し円性と称す。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『系図纂要』「九条家」

慶長10年 1605年 1月10日 53歳
豊臣秀頼の命により新造された九条兼孝の邸宅を三宝院義演が見物する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 63歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 72歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永12年 1635年 1月17日 83歳
九条兼孝が死去する。
出典:『系図纂要』「九条家」

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