人 物 史

分部光嘉 わけべ みつよし
生 没 年天文21年(1552)-慶長6年(1601)11/29
出 身伊勢国幼 名-
別 称四郎二郎、与三左衛門、政寿、昌寿
法 名-
戒 名香徳院花林浄栄
細野藤光、分部光高[養父]峰道正の娘
兄 弟 姉 妹細野藤敦分部光嘉、川北藤元
配 偶 者分部光恒の娘
分部光勝、娘(長野正勝の妻)、娘(渡辺久勝の妻)、分部光信[養子]
官 位左京亮
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第3輯 刊本
関 連 デ ー タ-
分部光嘉 年表
天文21年 1552年 -月-日 1歳
分部光嘉伊勢国にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光嘉」の項

弘治1年 1555年 10月23日 4歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 7歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄10年 1567年 3月16日 16歳
葉野(伊勢国)にて北畠具教分部光高が戦い、具教が勝利する。光高は戦死する。
分部勢:光高、分部光嘉
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光高」の項、同392「分部光嘉」の項

元亀1年 1570年 4月23日 19歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 22歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正9年 1581年 9月3日 30歳
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀蒲生氏郷京極高次多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月10日 30歳
伊賀国を攻めている織田信雄の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。滝川一益堀秀政が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月11日 30歳
佐野具城(伊賀国)に北畠信雄が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月15日 30歳
筒井順慶の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 31歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 7月9日 33歳
羽柴秀吉坂本(近江国)に到着する。
分部光嘉より織田信雄の軍勢が神戸(伊勢国)に攻め入ったとの報を受けた秀吉は、神戸に軍勢を送るとともに、織田信包へのその旨を周知するように光嘉に伝える。
出典:『宇野主水記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 41歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 45歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 47歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 49歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 49歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月24日 49歳
毛利秀元吉川広家天野元政・元倶父子、宍戸元続福原広俊、益田元祥、渡辺広、長束正家富田信高の籠る安濃津城(伊勢国)を攻める。
毛利勢:山内広通(天野元政勢)、山崎定勝
富田勢:分部光嘉
出典:『関原陣輯録』「勢州阿濃津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)

慶長5年 1600年 8月25日 49歳
毛利秀元吉川広家天野元政・元倶父子、宍戸元続福原広俊、益田元祥、渡辺広、長束正家富田信高の籠る安濃津城(伊勢国)を攻める。信高は降伏する。
毛利勢:山内広通(天野元政勢)、山崎定勝
富田勢:分部光嘉
出典:『関原陣輯録』「勢州阿濃津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『関原始末記』

慶長6年 1601年 11月29日 50歳
分部光嘉が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光嘉」の項

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