永禄4年 1561年 -月-日 |
打越光重が生まれる。 『寛政重修諸家譜』巻第205「打越光重」の項の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第205「打越光重」の項 |
永禄4年 1561年 -月-日 |
蘆名盛隆が生まれる。 |
出典:- |
永禄4年 1561年 1月15日 |
三好長慶・慶興父子が上洛し足利義輝に出仕する。義輝は長慶・慶興父子を御相伴衆に取り立て、桐の御紋の使用を許す。また慶義に偏諱を賜い「義興」と名乗らせる。 |
出典:『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」 |
永禄4年 1561年 2月1日 |
三好義興、松永久秀が幕府に出仕する。足利義輝が義興、久秀に御紋を賜う。 |
出典:『三好亭御成記』(『続群書類従』第23輯下) |
永禄4年 1561年 2月2日 |
武田信玄が上野国に侵攻すべく、軍勢15500を率い甲府を発ち、鳥本(上野国)に到着する。 |
出典:『上野国群馬郡箕輪軍記上』 |
永禄4年 1561年 2月19日 |
井伊直政が生まれる。 |
出典:- |
永禄4年 1561年 2月23日 |
三好義興が鹿苑寺を見物する。 |
出典:『三好亭御成記』(『続群書類従』第23輯下) |
永禄4年 1561年 3月3日 |
三好義興が足利義輝に自邸への訪問を申し入れる。 |
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』) |
永禄4年 1561年 3月13日 |
足利義輝が参内する。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条 |
永禄4年 1561年 3月15日 |
納屋宗春の茶会に千宗易、三好実休、今井宗久が参会する。 |
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条 |
永禄4年 1561年 3月18日 |
十河一存が死去する。 |
出典:- |
永禄4年 1561年 3月19日 |
足利義輝が炭山にて鷹狩を行う。 |
出典:『厳助大僧正記』同年月日条 |
永禄4年 1561年 3月26日 |
毛利元就・隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に赴べく、吉田郡山城(安芸国)を出立し、椋梨(安芸国)にて宿泊する。 |
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号) |
永禄4年 1561年 3月27日 |
毛利元就・隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に到着する。元就は井上春忠邸に、隆元は巨真寺(安芸国)に宿泊する。 |
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号) |
永禄4年 1561年 3月28日 |
大坂本願寺にて本願寺顕如が親鸞300回忌法要を執り行う。 |
出典:『厳助大僧正記』同年月日条 |
永禄4年 1561年 3月29日 |
三好長慶・義興の御相伴衆就任を祝うべく長慶の館へ足利義輝が御成する。その際、義輝が長慶に細川晴元との和睦をするよう言い渡す。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」 |
永禄4年 1561年 3月30日 |
未刻(13-15時)、足利義輝が三好義興邸を訪れる。安威藤備、安東泰職、石谷光政、小林藤宗、進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭・和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱・三好長慶・松永久秀・長逸・三好宗渭・三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。 |
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号) |
永禄4年 1561年 閏3月16日 |
長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を相続する。名を上杉政虎に改める。 |
出典:- |
永禄4年 1561年 4月15日 |
善明堤(三河国)にて吉良義昭と松平好景・伊忠が戦い、義昭が勝利する。松平好景、松平定清、松平好之、松平景行、板倉好重が戦死する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」「松平定清」「松平好之」「松平景行」の項、同巻第81「板倉好重」の項 |
永禄4年 1561年 4月21日 |
伊勢貞孝が伊達晴宗に飛鳥井雅春の陸奥下向を伝え、対面し懇意にするよう依頼する。 |
出典:(永禄4年)4月21日付伊勢貞孝書状(『伊達家文書』1-226号) |
永禄4年 1561年 4月25日 |
浅井長政が竹生島要脚の内、3000疋を京の八幡真慶に渡すようにと竹生島年行事に伝える。 |
出典:永禄4年4月25日付浅井賢政書状(「竹生島文書」『東浅井郡誌』127号) |
永禄4年 1561年 5月6日 |
足利義輝が斡旋していた三好長慶と細川晴元の和睦が成立する。晴元は普門寺(摂津国)に入り富田荘を知行地として長慶より与えられる。 |
出典:『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」 |
永禄4年 1561年 5月11日 |
斎藤義龍が死去する。 |
出典:- |
永禄4年 1561年 5月13日 |
織田信長が勝村(美濃国)に陣取る。 |
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」 |
永禄4年 1561年 5月14日 |
森部の合戦にて織田信長と斎藤龍興が戦う。 |
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」 |
永禄4年 1561年 5月14日 |
森部の合戦にて織田信長と斎藤龍興が戦う。この戦いで、前田利家が足立六兵衛を討ち取り、赦免される。 |
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」 |
永禄4年 1561年 5月23日 |
十四条の合戦にて織田信長と斎藤龍興が戦う。 |
出典:『信長公記』首巻(37)「十四条合戦の事」 |
永禄4年 1561年 5月24日 |
朝、織田信長が墨俣城(美濃国)に帰城する。 |
出典:『信長公記』首巻(37)「十四条合戦の事」 |
永禄4年 1561年 6月-日 |
織田信長が於久地(大口)に攻め入る。 |
出典:『信長公記』首巻(38)「於久地惣構破るゝの事」 |
永禄4年 1561年 6月-日 |
松永長頼・粟屋氏が若狭国に入国する。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条 |