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永禄11年 1568年 -月-日
小原鎮資が死去する。
出典:-

永禄11年 1568年 -月-日
竹本正次が加藤正次と名を改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第777「加藤正次」の項

永禄12年 1569年 -月-日
島津鶴寿丸が生まれる。
『寛政重修諸家譜』巻第108「清和源氏 為義流 島津」「島津某(鶴寿丸)」の項の没年・享年の享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津某(鶴寿丸)」の項

永禄12年 1569年 -月-日
小笠原秀政が山城国綴喜郡宇治田原にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

永禄12年 1569年 -月-日
天桂院が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項の天桂院の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項

永禄12年 1569年 -月-日
丹羽氏重が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項

永禄12年 1569年 -月-日
本多康俊が生まれる。
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永禄12年 1569年 -月-日
以心崇伝山城国京都にて生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 -月-日
岩瀬氏与が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項

永禄12年 1569年 -月-日
豊臣秀勝が生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 -月-日
羽柴秀勝が生まれる。
出典:-

永禄12年? 1569?年 -月-日
大野治長が生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 1月1日
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月2日
多聞院英俊が十市遠勝に円鏡、膳、樽1荷を例年通り贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月2日
北条氏康が上杉家家臣 松本景繁・河田長親・上野家成に書状を送り上杉謙信と和睦することを請う。
出典:永禄12年1月2日付北条氏康書状(「歴代古案」)

永禄12年 1569年 1月3日
津田宗及、武野宗瓦、千宗易今井宗久の茶会に参会する。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄12年 1569年 1月7日
1月6日の七条の合戦で三好義継の戦死が噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月10日
三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた織田信長が、この日、入洛する。救援の軍勢に松永久秀等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月10日
十市遠勝が遠成に改名し、花押も「盈」の字にする。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月12日
織田信長の上洛につき尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・若狭国・丹波国・摂津国・河内国・山城国・大和国・和泉国の国衆が上洛し80000の軍勢が集まる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月13日
足利義昭熊谷信直に三好三人衆を退治すべく四国への出陣を催促する。使者は柳沢元政。
出典:永禄12年1月13日付足利義昭御内書(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」146号)

永禄12年 1569年 1月18日
北条氏康氏政父子が武田信玄に攻められた今川氏真を救援すべく、小田原城(相模国)より出陣し、心経寺に陣取る。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月19日
織田信長が近習500名を従え参内し、三毬打を見物する。その後、小御所にて酒を賜うも銚子が遅れたため退出する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月20日
天王山(遠江国)にて徳川家康今川氏真が戦う。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月21日
足利義昭の居所として織田信長が勘解由小路室町にあった足利義輝の御所(武衛御所)を再興すべく自らが奉行となって普請を始める。石積みを西側より始める。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より石を集める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月25日
北条氏康氏政父子が清見寺に向けて発向する。武田信玄は軍勢を興津河原(駿河国)に出す。辰刻(7-9時)、北条勢と武田勢が戦い、北条勢が勝利する。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月26日
織田信長が、足利義輝が戦死した御所(武衛御所)に、足利義昭の御殿を建立することを、同地に建立されていた真如堂蓮光院に伝える。真如堂には替地として一条の西の地(広さ4丁町)の寄進と所領の安堵、さらには西岡(山城国)のうち知徳庵、知徳庵道場分を新たに寄進、課役の賦課と寄宿停止を伝える。
出典:永禄12年1月26日付織田信長朱印状(「真正極楽寺文書」『織田信長文書の研究』上巻147号)

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