天正11年 1583年 7月1日 |
日吉社聖真子念仏堂の勧進帳がなる。 |
出典:『華頂要略』附録 |
天正11年 1583年 7月3日 |
筒井順慶が春日社に参詣する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月3日 |
桜井松平の当主・家広が幼少につき、徳川家康は家臣・堀重純に朱印状を下し、家政の取り仕切りを命じる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項 |
天正11年 1583年 7月4日 |
紀伊より貝塚(和泉国)に到着した本願寺顕如が円山内匠をもって浅野長政、石田佐吉に書状を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月4日 |
雑賀衆の案内により紀伊から貝塚(和泉国)に移る。雑賀衆のうち貝塚までは平太夫、根太夫、明道、船頭の佐之助が、嘉祥寺までは刑部助、刑部大夫、刑部大夫弟が案内する。 羽柴秀吉へ音信として円山内匠を遣わし大樽10を贈る。浅野長政、石田佐吉、堀秀政、羽柴秀長にも書状を遣わす。ただし長政には以前に送った音信が留守のため渡せなかったので、下間頼廉の書状にて音信として銀5枚を贈る。 岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を遣わす。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月4日 |
本願寺顕如が紀伊より貝塚(和泉国)に移る。 顕如の音信の使者として羽柴秀吉のもとに赴き大樽10を贈る。本願寺顕如の書状を秀吉家臣の浅野長政、石田三成、堀秀政、羽柴秀長に渡す役目を負う。 岸和田城(和泉国)の中村一氏へ頼廉の折紙を持参する。 この日は、堺に逗留し、5日に秀吉のいる大坂(摂津国)へと向かう予定。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月5日 |
筒井順慶、箸尾が大坂城(摂津国)にいる羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。金子30枚を持参する。 |
出典:『多聞院日記』同年月8日条 |
天正11年 1583年 7月6日 |
仁賀保重挙が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第205「仁賀保重挙」の項 |
天正11年 1583年 7月10日 |
蘆名盛隆が伊達家と相馬家の和睦を祝す書状を伊達政宗に送る。 |
出典:天正11年7月10日付蘆名盛隆書状(『伊達家文書』1-279号) |
天正11年 1583年 7月11日 |
島津義久が合志親為の服属を祝し太刀1腰・鹿毛の馬1疋を贈る。 |
出典:『上井覚兼日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月11日 |
前大乗院門跡の尋円が死去する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月14日 |
本願寺顕如が、羽柴秀吉への毛利家の使者として安芸より堺にやってきた安国寺恵瓊や荒木村重に書状を送り、大坂本願寺退散以来無音であったことを謝す。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 7月15日 |
青蓮院尊朝が横川三光坊に令旨を下し日吉社聖真子の再興を命じる。 |
出典:『天正本山再興記』,「延暦寺文書」,「青蓮院文書」 |
天正11年 1583年 7月23日 |
佐野宗綱が日吉社三宮本殿造営に奉加を出す。 |
出典:『東山御文庫記録』 |
天正11年 1583年 7月-日 |
宇佐社社僧安門坊が青蓮院尊朝の書道の門人となる。 |
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正11年 1583年 -月-日 |
梶井宮最胤が西塔定泉坊詮舜に令旨を下し二宮の再興を命じる。 |
出典:『天正本山再興記』,「延暦寺文書」,「青蓮院文書」 |
天正11年 1583年 8月1日 |
筒井順慶が春日社に参詣する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 8月1日 |
羽柴秀吉が船越景直に河内国丹南郡内で1500石、同国錦郡内天野で300石、淡路国本知行分600石の2400石を給付する。 河内国丹南郡島泉280石1斗・北村391石3斗・向野村247石・錦郡上原庄622石5斗・天野300石、淡路国三原郡日野村600石 |
出典:天正11年8月1日付羽柴秀吉領知宛行状写・知行目録写(「古文書」国立公文書蔵(『豊臣秀吉文書集 一』788・789号)) |
天正11年 1583年 8月1日 |
羽柴秀吉が芦浦観音寺の知行480石を安堵する。 |
出典:天正11年8月1日付羽柴秀吉安堵状写(「芦浦観音寺文書」) |
天正11年 1583年 8月10日 |
筒井順慶が教如に大輪田又左衛門・今井兵部を使者として遣わし、この日、教如のもとに到着する。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 8月11日 |
杉原家次が材木を寄進する。 |
出典:『華頂要略』附録祐能記 |
天正11年 1583年 8月15日 |
小幡憲重が死去する。 |
出典:- |
天正11年 1583年 8月18日 |
寺内素休が越中国在番の上杉家家臣である桐沢具繁・黒金景信・須田満親・千坂景親に、上杉景勝へ教如からの音信をとりなしてもらうよう依頼する。また彼等に、寺内素休が越中在国期にお世話になったことの礼を述べる。 |
出典:(天正11年)8月18日付素休書状写(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2831号「景勝公諸士来書」十九) |
天正11年 1583年 8月19日 |
山科言経が本能寺にあった村井貞勝の旧邸に赴く。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正11年 1583年 8月22日 |
有馬(摂津国)に湯治中の羽柴秀吉へ音信として道服2・大樽5、石田三成に綿5把、増田長盛に綿5把を遣わす。使者は円山内匠。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 8月26日 |
朝、筒井順慶が成身院にて茶の湯を催す。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 8月28日 |
江尻城(駿河国)の在番を西郷家員より松平家忠に交替する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項 |
天正11年 1583年 9月4日 |
大坂城(摂津国)普請につき諸国より人夫が集まり石を曳くという。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正11年 1583年 9月15日 |
本願寺顕如が、貝塚動座の礼として羽柴秀吉へ下間頼廉、寺内若狭、増田照従を遣わす。両名は堺に到着。頼廉は浅野長政への音信の添状と、岸和田城(和泉国)城主・中村一氏への添状を調える。 |
出典:『宇野主水記』同年月日条 |
天正11年 1583年 9月16日 |
上杉景勝が岩井信能に飯山城(信濃国)の普請につき、有入・不入の差別なく普請役を徹底させるように命じ、普請役に応じない場合は景勝まで報告するようにと命じる。 |
出典:天正11年9月16日付上杉景勝朱印状写(『元禄四年米沢藩御書集18』(上越市史中世史部会『上越市史叢書7 上杉家御書集成二』2002年) |