天正17年 1589年 7月13日 |
富田一白が伊達政宗に、蘆名義広を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済なので、政宗より豊臣秀吉に事情を説明するよう伝える。 |
出典:(天正17年)7月13日付富田一白書状(『伊達家文書』1-425号) |
天正17年 1589年 7月17日 |
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木の運搬のため松平家忠に新井まで赴く。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 7月21日 |
前田利家が伊達政宗に、蘆名義広を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済であり、豊臣秀吉も、政宗が自身の都合で蘆名領に侵攻したことについて不審に思っているので、秀吉に利家からも執り成しをするので、使者を京都に遣わし、施薬院全宗、富田一白と相談の上、事情を説明するように書状をもって促す。 |
出典:(天正17年)7月21日付前田利家書状(『伊達家文書』1-426号) |
天正17年 1589年 7月21日 |
真田昌幸が領有する沼田城(上野国)を北条氏直に引き渡すべく、榊原康政、富田信広、津田信勝が沼田城に赴く。沼田城が氏直に引き渡された後、氏直は上洛し豊臣秀吉に礼をすることになっているという。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 7月22日 |
施薬院全宗が伊達政宗及び片倉景綱に、蘆名義広はすでに豊臣秀吉に礼をし、秀吉の支配下の者であるので、政宗が秀吉の了解を得ることなしに、自身の都合で一戦し、会津(陸奥国)に居住することについて、秀吉はよく思っていないことを書状をもって伝える。 |
出典:(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-427号)、(天正17年)7月22日付施薬院全宗書状(『伊達家文書』1-428号) |
天正17年 1589年 7月26日 |
石田三成が津川城(越後国)に籠る金上盛実に対し、摺上原の合戦で父・盛備が戦死したことを賞すとともに、伊達政宗に従わず蘆名義広・豊臣秀吉に忠節を尽していることを賞す。また、上杉景勝が支援するので頼るようにと伝えるとともに、豊臣家から兵粮・鉄砲・玉薬を送ったことを伝える。使者は寺内素休。 |
出典:7月26日付石田三成書状写(『会津若松史8 史料編1』「会津旧事雑考」所収「越後蒲原郡津川町文書」) |
天正17年 1589年 7月27日 |
聖護院道澄が大峰入峰のため京都を出立する。騎馬3騎、山伏200-300人が供奉する。 |
出典:『鹿苑日録』同年月日条 |
天正17年 1589年 8月2日 |
方廣寺大仏殿造営につき、富士山より伐り出した材木が興津に到着する。 |
出典:『家忠日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 8月13日 |
小笠原秀政が豊臣秀吉の命により、登久(松平信康の娘)を娶る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項 |
天正17年 1589年 8月22日 |
北野社の千部経法会が今日より行われる。淀殿の命により行われることになり、養命坊に命じられる。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 8月22日 |
豊臣秀吉が大坂城(摂津国)に赴くべく京都を発つ。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 9月3日 |
伊達政宗の会津(陸奥国)侵攻について、伊達家家臣・上郡山仲為が浅野長政に釈明する。まず、政宗の上洛が遅れていることについては、上杉景勝が伊達領に侵攻しているためとする。次いで会津侵攻について、伊達輝宗の代に、蘆名家へは政宗の弟が入嗣する予定であったが、その約束を違え、蘆名義広が入嗣することになり、かつ義広は白河・石川・岩城・岩瀬・相馬・大崎・黒川・最上義光とともに伊達家を討ち果たさんとしていたため、政宗は応戦したと説明する。なお、陸奥国54郡の支配については、伊達家が探題として任されていることは周知のことであること、釈明が遅れた理由は、景勝と手切れとなり使者の路次確保が困難であったためと伝える。 |
出典:(天正17年)9月3日付上郡山仲為書状(『伊達家文書』1-431号) |
天正17年 1589年 9月3日 |
松井康之が北野社松梅院禅興に海松1折を贈る。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 9月5日 |
寧々が大坂より聚楽第(山城国)に移る。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 9月7日 |
仙石秀久が上洛する。 |
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正17年 1589年 9月11日 |
仙石秀久が北野社に参詣する。 |
出典:『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正17年 1589年 9月17日 |
祇園社大塔が完成し槌供養が行われる。曼荼羅供養の導師は青蓮院尊朝。 |
出典:祇園大塔棟札写(「八坂神社文書」719号) |
天正17年 1589年 9月17日 |
前田玄以が法住院に赴く。 |
出典:『鹿苑日録』同年月日条 |
天正17年 1589年 9月19日 |
西笑承兌が前田玄以のもとを訪れ、双樽、両種(昆布50本、索麺10把)を贈る。 |
出典:『鹿苑日録』同年月日条 |
天正17年 1589年 9月25日 |
蜂屋頼隆が死去する。 |
出典:- |
天正17年 1589年 9月-日 |
擬講に補任される。 |
出典:『東塔』「地福院」の項(『天台宗全書』) |
天正17年 1589年 9月-日 |
延暦寺にて法華会を開く。探題は豪盛、講師は祐能。 |
出典:『東塔』「南光坊」の項(『天台宗全書』) |
天正17年 1589年 10月1日 |
浅野長政の所司代就任を祝い西笑承兌が礼に訪れる。 |
出典:『鹿苑日録』同年月日条 |
天正17年 1589年 10月10日 |
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。 |
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」 |
天正17年 1589年 10月13日 |
小西行長が軍勢6500と加藤清正よりの援軍として佐々平左衛門・古橋又助・瀧野讃岐・山内甚三郎率いる軍勢1500をもって志岐麟専の籠る志岐城(肥後国)に対峙する。 |
出典:『清正記』巻1 |
天正17年 1589年 10月18日 |
志岐城(肥後国)に籠る志岐麟専が城より打って出て、小西行長率いる軍勢6500と佐々平左衛門・古橋又助・瀧野讃岐・山内甚三郎率いる加藤清正勢1500と戦う。 |
出典:『清正記』巻1 |
天正17年 1589年 10月20日 |
前田玄以が北野(山城国)にて検地を行なう。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正17年 1589年 10月21日 |
検地奉行・御牧景則が西笑承兌訪れる。伏見から三栖の所領について堺を打つ。検地のことについて景則に尋ねる。景則に礼儀を贈るも断られる。 |
出典:『鹿苑日録』同年月日条 |
天正17年 1589年 10月26日 |
須賀川(陸奥国)にて、伊達政宗と岩城常隆勢の竹貫・植田但馬守及び佐竹義宣勢の百々寺と戦い、政宗が勝利する。 |
出典:(天正17年)10月26日付伊達政宗書状(『伊達家文書』1-436号) |
天正17年 1589年 10月29日 |
加藤清正が志岐麟専の籠る志岐城(肥後国)を攻めるべく川尻(肥後国)を出立する。清正は志岐城に寺田篠助を遣わす。 |
出典:『清正記』巻1 |