人 物 史

田沢正忠 たざわ まさただ
生 没 年?-元和7年(1621)7/22
出 身-幼 名-
別 称久助、七右衛門
法 名成覚
戒 名-
田沢正俊-
兄 弟 姉 妹田沢正忠
配 偶 者-
田沢正久、田沢正次
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
田沢正忠 年表
- -年 -月-日 
田沢正忠が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 9月10日 
川中島(信濃国)にて武田信玄上杉政虎が戦う。武田勢:武田信繁(戦死)、室住虎光(戦死)、山本晴幸(戦死)、初鹿野忠次(戦死)、油川信吉[戦死]、田沢正俊(戦死)、山高親之(信繁の首級奪還)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第147「油川信吉」、同巻第150「田沢正俊」の項、同巻第160「山高親之」の項

元亀4年 1573年 4月12日 
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正3年 1575年 5月20日 
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正10年 1582年 3月11日 
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 8月21日 
田沢正忠徳川家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正10年 1582年 12月9日 
徳川家康田沢正忠が正忠の旧領の内、45貫文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正12年 1584年 -月-日 
徳川家康田沢正忠に甲斐国巨摩郡内で200貫を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正14年 1586年 10月27日 
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 -月-日 
徳川家康田沢正忠に武蔵国都築郡・榛沢郡内で400石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

慶長3年 1598年 8月18日 
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

元和2年 1616年 4月17日 
徳川家康が死去する。
出典:-

元和7年 1621年 7月22日 
田沢正忠が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

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