人 物 史

葉室定藤 はむろ さだふじ
生 没 年永禄1年(1558)-天正8年(1580)10/9
出 身-幼 名-
別 称長教
法 名-
戒 名-
葉室頼房秦重清の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位左少弁、右中弁、左中弁、蔵人頭
氏 族 門 流-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
葉室定藤 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
葉室定藤が生まれる。
出典:『系図纂要』「葉室」

弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 2月12日 19歳
立売上風呂町の宗珍という僧庵にて山科言経葉室長教がイリントという物の論語講釈を聴く。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月28日 19歳
二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継山科言経葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月27日 19歳
吉田兼見の妻が清水寺に参詣する。千部経聴聞のため山科言経葉室長教薄以継、雲松軒が参詣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 19歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月24日 19歳
寅刻(3-5時)、父・頼房が死去する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月1日 22歳
四方拝の奉行職事を勤める。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月17日 22歳
葉室長教がの名を定藤に改めることを禁裏に請う。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 1月21日 22歳
五辻元仲に嫁いだ姉が女子を出産する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月17日 22歳
左少弁となる。
出典:『系図纂要』「葉室」

天正8年 1580年 1月5日 23歳
右中弁となる。
出典:『系図纂要』「葉室」

天正8年 1580年 3月24日 23歳
左中弁、蔵人頭となる。
出典:『系図纂要』「葉室」

天正8年 1580年 10月9日 23歳
葉室定藤が死去する。
出典:『系図纂要』「葉室」

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