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軍役から石高算出
地 名 の 歴 史
越前国[国]
えちぜんのくに
初 見
-
国
越前国
郡
敦賀郡、足羽郡、丹生郡、今立郡、坂井郡、大野郡
荘 園
-
中 世 高
-
近 世 領 主
-
近 世 石 高
-
鎮 守
-
神 社
敦賀神宮
寺 院
-
城 郭
越前国の城郭
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
越前国[国] 年表
永禄7年 1564年 9月1日
朝倉景鏡
・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)
永禄7年 1564年 9月12日
朝倉義景
が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)
永禄7年 1564年 9月17日
本折(加賀国)にて、
朝倉義景
と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他
永禄7年 1564年 9月20日
鵜谷口(加賀国)にて、
朝倉義景
と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」)
永禄10年 1567年 2月25日
足利義昭
が
朝倉義景
の居所・一乗谷(越前国)に入る。
出典:『綿考輯録』巻1
永禄11年 1568年 7月16日
足利義昭
が
織田信長
の居城・
岐阜城
(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と
前波景当
が国境まで警護する。義昭は
浅井長政
の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1
永禄13年 1570年 4月20日
織田信長
が
朝倉義景
の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て
坂本
(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。
武井夕庵
、
松永久秀
、
池田勝正
(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条
永禄13年 1570年 4月21日
織田信長
が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
永禄13年 1570年 4月22日
織田信長
が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年 1570年 4月23日
織田信長
が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」
元亀1年 1570年 4月25日
織田信長
が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項
元亀1年 1570年 4月26日
金ヶ崎城
(越前国)に籠城していた
朝倉景恒
が
織田信長
に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」
元亀1年 1570年 4月29日
織田信長
が越前国侵攻中のところ、義弟・
浅井長政
が信長を裏切り、
朝倉義景
に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 4月30日
越前国侵攻中の
織田信長
が、
浅井長政
の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。
松永久秀
等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条
元亀1年 1570年 6月28日
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて
織田信長
・
徳川家康
と
浅井長政
・
朝倉義景
が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、
坂井政尚
、
坂井尚恒
(戦死)、
丹羽氏勝
、
大島光義
。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、
酒井忠次
[先鋒]、
石川数正
、
榊原康政
、
松平信一
、
松平忠正
、
酒井重忠
、
小栗忠政
(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、
野々山元政
、
渥美友勝
、
加藤正次
。
浅井長政勢:浅井長政[大将]、
遠藤直経
(戦死)、
藤堂高虎
。
朝倉勢:
真柄直隆
(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が
小谷城
(近江国)の押さえとして
木下秀吉
を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『
藤堂家覚書
』
天正1年 1573年 8月14日
昨夜より
織田信長
が
朝倉義景
勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。
斎藤龍興
が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月18日
織田信長
が府中龍門寺(越前国)に陣取る。
朝倉義景
は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月20日
朝倉景鏡
の裏切りにより賢松寺(越前国)にて
朝倉義景
が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる
織田信長
のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)
天正2年 1574年 1月19日
越前国守護代
桂田長俊
が越前国国衆に殺害される。
出典:『信長公記』巻7(2)「前波生害、越前一揆蜂起の事」
天正2年 1574年 4月14日
一向一揆が平泉寺(越前国)に籠る
朝倉景鏡
を攻め、景鏡が戦死する。
出典:-
天正3年 1575年 9月2日
織田信長
が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を
柴田勝家
に給付する。大野郡の2/3を
金森長近
に、1/3を
原長頼
に給付する。今立郡・南条郡を
佐々成政
、
前田利家
、
不破光治
に給付する。
明智光秀
に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を
細川藤孝
に給付する。
荒木村重
に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」
天正5年 1577年 8月8日
上杉謙信
の攻撃を受けた
七尾城
(能登国)城主・長続連を救援すべく、
織田信長
は
柴田勝家
を大将として
滝川一益
、
羽柴秀吉
、
丹羽長秀
、
斎藤利治
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
不破光治
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」
天正11年 1583年 4月24日
柴田勝家
が
北之庄城
(越前国)にて自害する。
出典:-
天正13年 1585年 4月16日
丹羽長秀
が死去する。
出典:-
天正13年 1585年 閏8月9日
羽柴秀吉
が加賀国より越前国に入る。
出典:『兼見卿記』同年月12日条
天正17年 1589年 10月10日
豊臣秀吉
が諸国に、来年3月、
北条氏政
を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」
天正18年 1590年 5月27日
堀秀政
が
小田原城
(相模国)早川口の陣中にて死去する。
出典:-
慶長12年 1607年 閏4月8日
松平秀康
が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条
慶長18年 1613年 5月19日
徳川家康
が
本多富正
に越前国の仕置きを命じ、朱印状も発給する。富正は越前国に帰国する。
出典:『駿府記』同年月日条
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