歴史の目的をめぐって
TОP
歴史
人 物 史
城 郭 史
寺 院 史
神 社 史
地 名
総 年 表
資料
文化財
商用利用可能 文化財画像
書籍
コンテンツ
和暦西暦変換
中世貨幣の価値
年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
平田城(豊前国)
ひらたじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
白米城
現 所 在 地
〒871-0401
大分県中津市耶馬溪町大字平田987
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
栗山利安
平田城(豊前国) 年表
天正15年 1587年 1月25日
島津義久
成敗につき、
宇喜多秀家
(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 2月1日
島津義久
成敗につき、
宮部継潤
・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月5日
島津義久
成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、
福島正則
(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、
高山重友
(軍勢1300)、
細川忠興
(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月10日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀長
(軍勢15500)、
筒井定次
(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月15日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀勝
(軍勢5000)、
丹羽長重
(軍勢500)、
生駒親正
(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月20日
島津義久
成敗につき、
前田利長
(軍勢3000)、
長谷川秀一
(軍勢1700)、
堀秀政
(軍勢3000)、
木村重玆
(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、
溝口秀勝
(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、
太田一吉
(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月25日
島津義久
成敗につき、
蒲生氏郷
(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、
九鬼嘉隆
(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、
池田輝政
(軍勢1000)、
森忠政
(軍勢1000)、
稲葉典通
(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 3月1日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀吉
(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。
蜂屋頼隆
(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、
石川数正
(軍勢500)、
佐々成政
(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、
矢部家定
(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、
古田重然
(軍勢130)、
稲葉方通
(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、
浅野長政(軍勢1200)
、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、
富田信広
(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、
片桐且元
、
糟屋武則
(軍勢150)、
池田長吉
(軍勢400)、
川尻秀長
(軍勢120)、
加藤清正
(軍勢170)、
古田重勝
(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、
青木一重
(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として
豊臣秀次
を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 3月29日
豊臣秀吉
が
小倉
(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は
豊臣秀長
を大将に
毛利輝元
・
吉川元長
・
小早川隆景
・
宇喜多秀家
・
黒田孝高
・
宮部継潤
・亀井茲矩・
蜂須賀家政
・
長宗我部元親
・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・
大友義統
の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年 1587年 4月1日
豊臣秀勝
、
前田利長
、
蒲生氏郷
率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、
豊臣秀吉
は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年 1587年 4月2日
豊臣秀吉
が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した
秋月種実
は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・
種長
とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 4月4日
豊臣秀吉
が
秋月種実
の居城・荒平山城(筑前国)に入る。
生駒親正
が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎
が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年 1587年 4月13日
豊臣秀吉
が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月16日
豊臣秀吉
が
熊本城
(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月17日
宮部継潤
が守る根白坂砦(日向国)を
島津家久
が攻める。
豊臣秀長
が救援に赴き、麾下の
藤堂高虎
と
宇喜多秀家
勢の
戸川達安
が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』
天正15年 1587年 4月19日
豊臣秀吉
が
宇土城
(肥後国)に入城する。
熊本城
(肥後国)に
富田知信
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月21日
豊臣秀吉
が
八代城
(肥後国)に入城する。
宇土城
(肥後国)に
加藤清正
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月5日
豊臣秀吉
が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月6日
島津義久
が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年 1587年 5月8日
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに剃髪した
島津義久
が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月9日
豊臣秀吉
が
島津義久
に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正15年 1587年 6月18日
豊臣秀吉
が、筥崎(筑前国)の海辺にて歌会を催す。
山名禅高
、
細川幽斎
等が参加する。
日向国・大隅国の仕置きを終えた
小早川隆景
が箱崎に到着する。
秀吉が九州の国替えを行う。
隆景に筑前国、肥前国基肄郡・養父郡、筑後国三井郡・三原郡を給付する。隆景は
立花山城
(筑前国)に入城する。
隆景の伊予国23000石の所領を、
安国寺恵瓊
に給付する。
秀吉が
秋月種長
を財部(日向国)に移し30000石を給付する。
立花宗茂
を立花山城から筑後国下三郡に移す。
高橋統増
に筑後国三池郡を給付する。
小早川秀包
に筑後国上三郡を給付する。
筑紫広門に筑後国上妻郡を給付する。
高橋元種
を香春(豊前国)より県(日向国)に移す。
龍造寺政家の肥前国の本領を安堵するとともに三郡を加増する。
大友義統
に豊後国を安堵する。
相良長毎、
伊東祐兵
、有馬、平戸、大村、五島、
宗義智
の本領を安堵する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 7月3日
豊臣秀吉
が
小倉城
(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が
黒田孝高
に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・
下毛郡
・宇佐郡を、
毛利高政
に豊前国
規矩郡
・田河郡を給付する。
孝高は
馬ヶ嶽城
(豊前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 10月1日
城井鎮房
等の豊前国衆が蜂起する。
黒田長政
は馬嶽城(豊前国)より出陣し、安雲村朝日嶺にて、黒田家に味方する国衆より人質を取る。姫隈城(豊前国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」
天正15年 1587年 10月9日
黒田長政
が
城井鎮房
の籠る
城井谷城
(豊前国)を攻める。
出典:『
菅氏世譜
』、『黒田家譜』巻5「孝高記」
天正16年 1588年 4月20日
黒田長政
が
城井鎮房
を
中津城
(豊前国)に招き殺害する。
出典:-
慶長5年 1600年 7月5日
黒田長政
が
徳川家康
の
上杉景勝
征伐につき、
伏見城
(山城国)より出陣する。黒田勢の先手士頭は
後藤基次
・
黒田一成
、旗奉行は小河之直。大坂屋敷留守居に
母里友信
、
栗山利安
、宮崎助大夫を置く。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」
慶長5年 1600年 7月17日
大坂(摂津国)の黒田邸の留守居をしてた
栗山利安
・
母里友信
が、
中津城
(豊前国)に居る
黒田如水
に向けて、
石田三成
の蜂起を告げる使者・野間源兵衛を送る。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」
慶長5年 1600年 -月-日
黒田如水
が毛利勝信の居城・
小倉城
(豊前国)を攻め落とす。
出典:『関原始末記』
慶長5年 1600年 9月9日
辰刻(7-9時)、
黒田如水
が豊後国に攻め入るべく
中津城
(豊前国)より出陣する。備一番は
母里友信
、二番は黒田直之、三番は
栗山利安
・黒田五郎右衛門、四番は
井上之房
、五番は野村市右衛門・後藤左門、六番は母里与三兵衛・時枝平大夫、七番は久野次左衛門・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の総勢9000余。中津城には黒田利則を、感田城(豊前国)には衣笠景延・高橋彦次郎を、
馬ヶ嶽城
(豊前国)には桐山信行・宮崎助大夫をを置く。如水勢は高森城にて一宿する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」
慶長5年 1600年 9月10日
黒田如水
勢が高田城(豊後国)の竹中重信の軍勢と合流し、赤根峠に陣取る。
夜、
大友義統
が浜脇(豊後国)に到着する。大友勢は
松井康之
・
有吉立行
の籠る
杵築城
(豊後国)を攻める。孝高は
井上之房
・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平大夫・母里与三兵衛・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の軍勢3000を援軍として遣す。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」
慶長5年 1600年 9月11日
黒田如水
が垣見理右衛門・藤井九左衛門の籠る富来城(豊後国)を包囲する。如水は杵築城(豊後国)の救援に向かうため、同城より引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」
慶長5年 1600年 9月12日
黒田如水
が安岐城(豊後国)の近くに陣取る。如水勢と安岐城を守っていた熊谷次郎介が戦う。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」
慶長5年 1600年 9月13日
石垣原の合戦で
黒田如水
と
大友義統
が戦い、如水が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』
慶長6年 1601年 -月-日
黒田長政
が、
大隈城
(筑前国)に
後藤基次
を、
鷹取城
(豊前国)に
母里友信
を、麻底良城(筑前国)に
栗山利安
を、黒崎城(筑前国)に
井上之房
を、若松城(筑前国)に三宅若狭を、小石原城(筑前国)に黒田六郎右衛門を置く。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」
寛永8年 1631年 8月14日
栗山利安
が死去する。
出典:-
城郭リストに戻る
Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.