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永禄13年 1570年 2月14日
布部山(出雲国)にて毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢と山中幸盛・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月16日
得度し、法名を教如、諱を光寿と称す。
出典:『紫雲殿由縁記』

永禄13年 1570年 2月16日
佐久間信盛坂井政尚森可成、野間長前、蜂屋頼隆柴田勝家、竹内秀勝が、本興寺(尼崎)に対し、同寺および門前において織田勢の陣取りをしないことを連署状をもって伝える。
出典:(永禄13年)2月16日付佐久間信盛他連署状(「本興寺文書」『大』10-4、同年月日条)

永禄13年 1570年 2月19日
松永久秀が多聞院英俊に礼にくるようにと促し、英俊が久秀のもとに礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月24日
末次城(出雲国)に籠る尼子勝久を攻めるべく、吉川元春元長経言が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月26日
村井貞勝が曼殊院覚恕のもとを訪れる。曼殊院覚恕、山科言継村井貞勝日乗と湯漬を相伴する。みな下戸であるので中酒は形ばかりを繕う。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月30日
申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条

永禄13年 1570年 3月1日
織田信長畠山昭高畠山高政三好義長、畠山播磨守、鷲巣、大舘輝光、大舘晴忠等が足利義昭のもとに礼に赴く。
信長が参内する。太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が長橋局に参り1000疋(10貫)を進上する。
信長が誠仁親王のもとに参り対面する。誠仁親王に太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が新大典侍に参り折紙1000疋を進上する。
信長が半井驢庵のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月1日
三淵晴員が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第107「清和源氏 義家流 足利庶流 三淵」「三淵某」の項

永禄13年 1570年 3月3日
畠山昭高畠山高政三好義長、御供衆の細川藤賢・大舘輝光・大舘晴忠・一色藤長・一色播磨守・畠山播磨守・伊勢三郎・松永久通足利義昭のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月4日
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れる。しかし、信長は頭痛のため伏しており、対面できず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日
足利義昭が鷹狩に出る。織田信長三好義長松永久通が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れ、銭30疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れ、銭30疋(300文)を贈る。
足利義昭の鷹狩に信長、三好義長松永久通が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月6日
織田信長の命にて明智光秀日乗が公家衆に知行分の申告をさせ吟味のうえ給付することを伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月10日
中山孝親勧修寺晴右山科言継、甘露寺経元、庭田重通、日野、中院、局務師廉ら僧俗貴賤60名ほどが織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月12日
黒田孝高が永禄10年12月23日に称名寺へ田地1反を売却した際に、未払いだった代銭分を請け取る。
出典:永禄13年3月12日付小寺孝隆借銭請取状(「正明寺文書」『軍師官兵衛』)

永禄13年 1570年 3月16日
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日
山科言継葉室頼房足利義昭のもとに当年の礼に訪れる。申次は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日
長橋局が麺にて酒1盞を村井貞勝に勧める。山科言継と加田新左衛門が相伴する。ただし貞勝は下戸なため形式ばかりで済ます。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日
禁裏の作事を見舞う。長橋局にて禁裏御作事奉行の村井貞勝に麺にて酒1盞を勧める。加田新左衛門とともに相伴する。ただし、貞勝は下戸なため形式ばかりで済ます。
山科言継葉室頼房足利義昭のもとに当年の礼に赴く。申次は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月17日
鞍馬寺を目指す興福寺の多聞院英俊が三十三間堂に参詣し千手観応を見物する。
英俊は「四条ノ長刀杵ノ町五郎太郎」の所に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月18日
興福寺の多聞院英俊が織田信長の指揮する足利義昭の「御城」の普請を見物する。石蔵の四方ができていたという。また、内裏の造営についても英俊は見物。内侍所は檜皮葺きが完成し、紫宸殿は以前は檜皮葺きであったが瓦葺きになったこと、清涼殿は檜皮葺きであることを日記に留める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月19日
興福寺の多聞院英俊が鞍馬寺に参詣する。その後、英俊は比叡山に上る。横川に赴く。西方院にて茶を飲む。大講堂の釈迦如来、普賢堂に赴き、普賢堂では最澄、慈恵の影像を拝す。その後、根本中堂に訪れるも本尊は拝すことができず。なお、延暦寺は「堂モ坊舎ヲ一円ハテキレタル躰」だったという。また僧衆は「大旨坂本ニ下テ乱行不法無限」というありあさまで、それは「修学懈怠」のためえだるという。また、英俊は日吉社を参詣する。「社壇ノ結構」は目を驚かすものであったが、参詣者は稀で、社人・社僧も見当たらないありさまであったという。
ついで、英俊は坂本(近江国)を訪れる。坂本は「家々数多繁昌」に見えたという。小唐崎の「イセ屋」に英俊は宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月20日
この間、森可成が今道、ワラ坂を止め要害を築いている最中であるという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月20日
興福寺の多聞院英俊が清水寺に参詣する。堂舎の様子に目を見張る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月20日
真如堂が「荒ハテタ」状態で、「東山殿ノ御旧跡名ノミ」であばら家の民家に交じって1宇のみ存在しているという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月21日
東寺にて御影供が行われ京都の老若が群参する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月25日
東大寺の穀屋にて成福院が差配する法華同音が110名で行われる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月27日
夜、松永久秀が井戸城(大和国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月28日条

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