人 物 史

松平忠頼 まつだいら ただより
生 没 年天正10年(1582)-慶長14年(1609)9/29
出 身-幼 名-
別 称桜井松平
法 名-
戒 名円通院観翁浄喜
松平忠吉多劫(久松俊勝の娘)
兄 弟 姉 妹松平信吉、松平忠頼
配 偶 者織田長益の娘
松平忠重、松平忠直、松平忠勝、松平忠久、松平忠好、松平忠利
官 位左馬允
役 職-
城 郭松山城(武蔵国)、兼山城(美濃国)、浜松城(遠江国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項
関 連 デ ー タ-
松平忠頼 年表
天正10年 1582年 -月-日 1歳
松平忠頼が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項

天正12年 1584年 4月9日 3歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

文禄1年 1592年 12月8日 11歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 15歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長5年 1600年 9月9日 19歳
徳川家康岡崎城(三河国)に宿泊する。家康は松平忠頼に岡崎城(三河国)の守備を命じる。
出典: 『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項

慶長5年 1600年 9月15日 19歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 2月-日 20歳
徳川家康松平忠頼浜松(遠江国)50000石を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項

慶長8年 1603年 2月12日 22歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長12年 1607年 12月22日 26歳
駿府城(駿河国)にて火災につき、普請役を担う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項

慶長14年 1609年 9月29日 28歳
水野忠胤が茶会を催す。参加者は松平忠頼、久米左平次、服部半七。茶会の最中、左平次と半七が争論に及び、仲裁に入った忠頼が左平次に切られ死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠頼」の項

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