歴史の目的をめぐって
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歴史
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年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
長島城(伊勢国)
ながしまじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒511-1143
三重県桑名市長島町西外面
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
長島城(伊勢国)の関連文化財
リ ン ク
滝川一益
、
織田信雄
、
松平定勝
長島城(伊勢国) 年表
天正6年 1578年 4月29日
滝川一益
が播磨国に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」
天正6年 1578年 6月27日
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に
織田信忠
、
神戸信孝
、
佐久間信盛
、
林秀貞
、
細川藤孝
が、西の山に
丹羽長秀
が布陣する。他に
織田信包
、
明智光秀
、
荒木村重
、
稲葉一鉄
、
滝川一益
、
筒井順慶
、
蜂屋頼隆
が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 6月28日
織田信忠
が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より
織田信包
が攻め入り、城の東口を
滝川一益
・
丹羽長秀
が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 7月15日
滝川一益
、
丹羽長秀
が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 7月16日
佐久間信盛
、
荒木村重
が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。
滝川一益
、
丹羽長秀
が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 9月-日
津田信澄
、
滝川一益
、
明智光秀
、
細川藤孝
・
忠興
父子が長沢義遠の籠る小山城を攻める。
出典:『綿考輯録』巻3
天正6年 1578年 10月21日
荒木村重
が
織田信長
に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため
松井友閑
、
明智光秀
、
万見重元
を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月10日
織田信長
が
荒木村重
に与同した
高槻城
(摂津国)の
高山重友
を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
不破直光
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に
佐久間信盛
、
羽柴秀吉
、
松井友閑
、
大津長昌
を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『
姫路市史 史料編1
』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月14日
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、武藤舜秀、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
羽柴秀吉
、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、
蒲生賢秀
、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月24日
茨木城
(摂津国)に籠る
荒木村重
方の
中川清秀
が、
古田重然
・
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、
織田信長
に降伏する。
清秀の降伏により、信長は
本願寺顕如
との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条
天正6年 1578年 12月8日
織田信長
が
荒木村重
の籠る
有岡城
(摂津国)を攻める。攻め衆は、
堀秀政
・
万見重元
・
菅屋長頼
が奉行をつとめ、
筒井順慶
、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条
天正6年 1578年 12月11日
織田信長
が
有岡城
(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に
丹羽長秀
・
蜂屋頼隆
・
蒲生氏郷
・
高山重友
・
神戸信孝
を、毛馬村の砦に
織田信包
・
滝川一益
・
北畠信雄
・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に
池田恒興
・
元助
・
池田古新
を、原田郷の砦に
中川清秀
・
古田重然
を、刀根山の砦に
稲葉良通
・
氏家直昌
・
安藤守就
・芥川を、郡山の砦に
津田信澄
を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に
織田信忠
を、
高槻城
(摂津国)に
大津長昌
・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・
猪子高就
・村井作右衛門・武田左吉を、
茨木城
(摂津国)に
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
を置く。
播磨国に、
羽柴秀吉
・
佐久間信盛
・
明智光秀
・
筒井順慶
を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条
天正8年 1580年 9月25日
滝川一益
、
明智光秀
が奈良(大和国)に赴く。光秀は吉祥院に、一益は成身院に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 9月26日
織田信長
が大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆に対し所領の指出を命じる。指出にあたっては起請文形式で
滝川一益
、
明智光秀
宛で提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 10月23日
滝川一益
、
明智光秀
が大和国内の寺社領の指出について間違いがなかったことを確認する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 10月28日
明智光秀
が金蔵院にて戒重氏を、ヤケアトにて岡弥二郎を、中坊にて大仏供新屋と高田藤七郎を切腹させる。その後、
滝川一益
は岡弥二郎の所領に、
筒井順慶
は高田藤七郎の所領に、光秀は戒重氏、大仏供氏の所領へ赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 11月2日
滝川一益
、
明智光秀
が奈良(大和国)を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正9年 1581年 9月3日
織田信長
が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より
堀秀政
を大将に小姓衆・近江衆の
丹羽長秀
・
蒲生氏郷
・
京極高次
・
多賀常則
・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より
北畠信雄
・
滝川一益
、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から
筒井順慶
、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」
天正9年 1581年 9月6日
北畠信雄
、
滝川一益
、
丹羽長秀
、
堀秀政
等が御代河原(伊賀国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」
天正9年 1581年 9月10日
伊賀国を攻めている
織田信雄
の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。
滝川一益
・
堀秀政
が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」
天正9年 1581年 9月11日
佐野具城(伊賀国)に
北畠信雄
が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」
天正9年 1581年 9月15日
筒井順慶
の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月12日
織田信忠
が
岐阜城
(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月14日
織田信忠
が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より
森長可
・
団忠正
が木曽峠、梨子野峠を越え
飯田城
(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 3月2日
織田信忠
が仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、
森長可
・
団忠正
・毛利秀頼・
川尻秀隆
・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信忠
が甲斐国にて
武田勝頼
の所在を捜索し、所在地を突き止めた
滝川一益
が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、
秋山親久
、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、
土屋昌恒
も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」
天正10年 1582年 3月23日
織田信長
が
滝川一益
に上野国および信濃国下二郡を給付する。
出典:『信長公記』巻15(16)「滝川左近、上野国拝領の事」
天正10年 1582年 3月25日
滝川一益
が小幡信貞とともに給地の上野国に赴く。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」
天正10年 1582年 3月29日
織田信長
が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を
川尻秀隆
に、駿河国を
徳川家康
に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を
滝川一益
に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を
森長可
に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を
木曽義昌
に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を
穴山梅雪
に、岩村(美濃国)を
団忠正
に、金山米田島(美濃国)は
森成利
に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」
天正10年 1582年 6月2日
本能寺
に宿泊中の
織田信長
を、早朝、
明智光秀
が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する
織田信忠
とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:
森成利
(戦死)、
福富秀勝
(戦死)、
野々村正成
(戦死)。
信忠勢:
村井貞勝
(戦死)、
菅屋長頼
(戦死)、
織田信房
(戦死)、
団忠正
(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条
天正11年 1583年 閏1月12日
滝川一益
、
織田信孝
、
徳川家康
、
柴田勝家
が一味して雪解けとともに畿内に攻め入ると奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 2月10日
羽柴秀吉
が伊勢国に出陣し、
滝川一益
が所持する
亀山城
(伊勢国)・峯城(伊勢国)・国府城(伊勢国)を包囲する。
出典:(天正11年)3月17日付豊臣秀吉書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2701号)
天正11年 1583年 3月2日
羽柴秀吉
が
滝川一益
の重臣・滝川益重の籠る峯城(伊勢国)攻める。城攻めには
筒井順慶
が加わる。益重が羽柴勢を退ける。
出典:『多聞院日記』同年月5・8日条
天正11年 1583年 3月3日
滝川益氏が籠る
亀山城
(伊勢国)が
羽柴秀吉
に降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月8日条
天正11年 1583年 4月24日
柴田勝家
が
北之庄城
(越前国)にて自害する。
出典:-
天正12年 1584年 3月6日
織田信雄
が
長島城
(伊勢国)にて岡田重孝、津川義冬、浅井長時を殺害する。
羽柴秀吉
がこの件に立腹し、信雄に殺害理由を質す。
出典:『宇野主水記』同年月8日条、(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)
天正13年 1585年 3月2日
織田信雄
が
長島城
(伊勢国)に帰城すべく京都を発つ。
出典:『宇野主水記』同年月日条
元和6年 1620年 -月-日
徳川秀忠
が
松平定勝
に伊勢国長島7000石を給付し、
長島城
(伊勢国)を預ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項
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