人 物 史

米倉忠継 よねくら ただつぐ
生 没 年天文13年(1544)-慶長4年(1599)4月
出 身-幼 名-
別 称五郎兵衛
法 名珠元
戒 名-
米倉重継-
兄 弟 姉 妹米倉晴継米倉忠継米倉信継、米倉豊継、米倉利継、娘、娘、米倉満継
配 偶 者-
米倉信継[養子]
官 位主計助
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
米倉忠継 年表
天文13年 1544年 -月-日 1歳
米倉忠継が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項の没年・享年より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項

天文17年 1548年 -月-日 5歳
弟・信継が生まれる。*『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉信継」の項

弘治1年 1555年 10月23日 12歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 15歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 4月28日 26歳
薩埵山にて北条氏政武田信玄が戦う。
武田信玄勢:米倉晴継(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉晴継」の項

元亀1年 1570年 4月23日 27歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 4月12日 30歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 30歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 32歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 32歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正10年 1582年 3月11日 39歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 39歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月24日 39歳
徳川家康が樫山(甲斐国)に陣取る。折井次昌次忠父子、米倉忠継が同地にて家康を出迎える。家康は次昌・忠継に武川衆を指揮するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項、同巻第166「折井次忠」の項、同巻第169「米倉忠継」の項

天正10年 1582年 12月7日 39歳
徳川家康米倉忠継に甲斐国円井郷にて430貫の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項

天正13年 1585年 閏8月2日 42歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、青木信安山高信直[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、柳沢信俊[大久保忠世勢]、米倉忠継[大久保忠世勢]、米倉信継[大久保忠世勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同169「米倉信継」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同250「保科正直」の項

天正17年 1589年 -月-日 46歳
徳川家康米倉忠継に甲斐国円井郷にて700石を給付する。また、三吹郷・牧原郷・白坂郷にて400石を加増する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項

天正18年 1590年 7月6日 47歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 47歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 -月-日 47歳
徳川家康米倉忠継に武蔵国鉢形にて750石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項

天正18年 1590年 -月-日 47歳
徳川家康跡部久清に武蔵国鉢形にて所領を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「跡部久清」の項

文禄1年 1592年 12月8日 49歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 53歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 55歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 4月-日 56歳
米倉忠継が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第169「米倉忠継」の項

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