歴史の目的をめぐって
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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
神戸城(伊勢国)
かんべじょう
築 城 年
-
築 城 者
神戸具盛
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
明治4年 1871年
別 称
本多城
現 所 在 地
〒513-0801
三重県鈴鹿市神戸5丁目10
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
神戸具盛、
織田信孝
、
一柳直盛
、
滝川雄利
神戸城(伊勢国) 年表
天正2年 1574年 7月15日
織田信長
が
願証寺(長島)
攻めにつき、
九鬼嘉隆
、
滝川一益
、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、
島田秀満
、
林秀貞
が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・
信忠
ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、
氏家直昌
、
安藤守就
、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには
柴田勝家
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
蜂屋頼隆
を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として
佐久間信盛
・
信栄
父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、
不破直光
、
丹羽長秀
を置く。かろうと嶋の攻め手には、
織田信包
、
林秀貞
、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、
北畠信意
、
神戸信孝
、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」
天正3年 1575年 8月15日
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、
佐久間信盛
、
柴田勝家
、
滝川一益
、
羽柴秀吉
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
別喜右近
、
細川藤孝
、
原田直政
、
蜂屋頼隆
、
荒木村重
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
磯野員昌
、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、
不破光治
、武藤宗右衛門、
神戸信孝
、
津田信澄
、
織田信包
、
北畠信雄
率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」
天正5年 1577年 2月13日
織田信長
が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・
信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」
天正6年 1578年 4月4日
織田信長
が、
織田信忠
を大将とし、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
津田信澄
、
明智光秀
、
滝川一益
、
蜂屋頼隆
、
丹羽長秀
を加えた
大坂本願寺
攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年 1578年 5月1日
播磨国に向けて
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
細川藤孝
、
佐久間信盛
が出陣し、郡山に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」
天正6年 1578年 5月2日
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
細川藤孝
、
佐久間信盛
が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」
天正6年 1578年 5月6日
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
細川藤孝
、
佐久間信盛
が大久保(播磨国)に到着する。先陣を神吉(播磨国)、志方(播磨国)、高砂(播磨国)に遣わし、加古川(播磨国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」
天正6年 1578年 6月27日
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に
織田信忠
、
神戸信孝
、
佐久間信盛
、
林秀貞
、
細川藤孝
が、西の山に
丹羽長秀
が布陣する。他に
織田信包
、
明智光秀
、
荒木村重
、
稲葉一鉄
、
滝川一益
、
筒井順慶
、
蜂屋頼隆
が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 6月28日
織田信忠
が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より
織田信包
が攻め入り、城の東口を
滝川一益
・
丹羽長秀
が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 7月15日
滝川一益
、
丹羽長秀
が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 7月16日
佐久間信盛
、
荒木村重
が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。
滝川一益
、
丹羽長秀
が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 10月21日
荒木村重
が
織田信長
に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため
松井友閑
、
明智光秀
、
万見重元
を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月3日
荒木村重
の謀反につき、
織田信長
が
安土城
(近江国)に子・
神戸信孝
、
稲葉一鉄
、
不破光治
、
丸毛長照
を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条
天正6年 1578年 11月10日
織田信長
が
荒木村重
に与同した
高槻城
(摂津国)の
高山重友
を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
不破直光
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に
佐久間信盛
、
羽柴秀吉
、
松井友閑
、
大津長昌
を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『
姫路市史 史料編1
』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月14日
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、武藤舜秀、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
羽柴秀吉
、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、
蒲生賢秀
、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月24日
茨木城
(摂津国)に籠る
荒木村重
方の
中川清秀
が、
古田重然
・
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、
織田信長
に降伏する。
清秀の降伏により、信長は
本願寺顕如
との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条
天正6年 1578年 12月8日
織田信長
が
荒木村重
の籠る
有岡城
(摂津国)を攻める。攻め衆は、
堀秀政
・
万見重元
・
菅屋長頼
が奉行をつとめ、
筒井順慶
、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条
天正6年 1578年 12月11日
織田信長
が
有岡城
(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に
丹羽長秀
・
蜂屋頼隆
・
蒲生氏郷
・
高山重友
・
神戸信孝
を、毛馬村の砦に
織田信包
・
滝川一益
・
北畠信雄
・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に
池田恒興
・
元助
・
池田古新
を、原田郷の砦に
中川清秀
・
古田重然
を、刀根山の砦に
稲葉良通
・
氏家直昌
・
安藤守就
・芥川を、郡山の砦に
津田信澄
を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に
織田信忠
を、
高槻城
(摂津国)に
大津長昌
・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・
猪子高就
・村井作右衛門・武田左吉を、
茨木城
(摂津国)に
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
を置く。
播磨国に、
羽柴秀吉
・
佐久間信盛
・
明智光秀
・
筒井順慶
を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条
天正7年 1579年 3月4日
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
、
織田信包
が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻12「安土城年賀の事」
天正9年 1581年 2月19日
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
が上洛する。信忠、信雄は
妙覚寺
に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」
天正10年 1582年 5月11日
神戸信孝
が四国に渡海すべく、軍勢を率い住吉(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(24)「阿波国神戸三七御拝領の事」
天正10年 1582年 5月29日
神戸信孝
が
三好康長
の養子として阿波国に渡海するにあたり住吉(摂津国)に宿泊する。
出典:『鷺森日記』同年月日条
天正10年 1582年 6月5日
大坂(摂津国)にて
神戸信孝
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
が、
明智光秀
の聟・
津田信澄
を殺害する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 6月13日
山崎
(山城国)にて
織田信孝
・
羽柴秀吉
と
明智光秀
が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:
高山重友
、
中川清秀
、
堀秀政
、
池田恒興
、
羽柴秀長
、
黒田孝高
、神子田半左衛門、
加藤光泰
、
木村重茲
、
中村一氏
、
加藤清正
[羽柴秀吉勢]、
栗山利安
[黒田孝高勢]、
堤教利
[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、
明智光近
(戦死)、
斎藤利宗
、
伊勢貞興
(戦死)、
安田国継
。
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、
坂本
(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」
天正10年 1582年 7月7日
織田信長
死後の所領分配として、
織田信雄
に伊勢国・尾張国が、
織田信孝
に美濃国が、
柴田勝家
に長浜(近江国)20万石が、
羽柴秀吉
に山城国・河内国が、
羽柴秀長
に丹波国が、
丹羽長秀
に近江国高嶋郡・志賀郡が、
池田恒興
に河内国十七ヶ所・
大坂城
(摂津国)が、
堀秀政
に近江国中郡・織田三法師の傅役が、
筒井順慶
に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が
下京
の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 4月29日
織田信孝
が野間(尾張国)にて切腹する。
出典:『多聞院日記』同年5月10日条
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