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石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
荒子城(尾張国)
あらこじょう
築 城 年
-
築 城 者
前田利昌
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒454-0869
愛知県名古屋市中川区荒子2丁目191
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
前田利昌、前田利久、
前田利家
荒子城(尾張国) 年表
天文7年 1538年 12月25日
前田利家
が生まれる。
出典:-
永禄3年 1560年 5月19日
桶狭間にて
織田信長
が
今川義元
を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:
森可成
、
前田利家
。
今川義元勢:
松平宗次
(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項
永禄4年 1561年 5月14日
森部の合戦にて
織田信長
と
斎藤龍興
が戦う。この戦いで、
前田利家
が足立六兵衛を討ち取り、赦免される。
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」
永禄4年 1561年 10月-日
織田信長
の命により
前田利家
が兄・利久に替り前田家の家督を相続する。
出典:『系図纂要』「前田家」
永禄11年 1568年 -月-日
奥村栄明
が尾張国荒子にて生まれる。
出典:-
永禄12年 1569年 8月28日
織田信長
が
北畠具教
の
大河内城
(伊勢国)を包囲する。城の南に
織田信包
、
滝川一益
、織田忠寛、
稲葉良通
、
池田恒興
、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、
蒲生賢秀
、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、
山岡景隆
、
山岡景猶
、
丹羽長秀
が、城の西に
木下秀吉
、
氏家直元
、
安藤守就
、飯沼長資、
佐久間信盛
、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に
柴田勝家
、
森可成
、山田勝盛、
長谷川与次
、
佐々成政
、佐々政次、梶原景久、
不破光治
、
丸毛長照
、丹羽源六、
不破直光
、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を
前田利家
がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」
永禄12年 1569年 10月3日
織田信長
が
北畠具教
の
大河内城
(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条
元亀1年 1570年 9月14日
本願寺顕如
が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で
織田信長
と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を
佐々成政
が、第2陣を
前田利家
がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」
天正2年 1574年 7月14日
織田信長
が
願証寺(長島)
を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・
信忠
を大将として、
織田信包
、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、
斎藤利治
、簗田左衛門太郎、
森長可
、坂井越中守、
池田恒興
、
長谷川与次
、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には
佐久間信盛
、
柴田勝家
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
蜂屋頼隆
を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、
木下秀長
、浅井新八、
丹羽長秀
、
氏家直昌
、
安藤守就
、飯沼勘平、
不破光治
、
不破直光
、
丸毛長照
、丸毛三郎兵衛、
佐々成政
、市橋長利、
前田利家
、中条将監、
川尻秀隆
、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」
天正3年 1575年 5月20日
織田信長
が
酒井忠次
に信長馬廻の鉄砲衆500、
金森長近
、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」
天正3年 1575年 5月21日
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた
武田勝頼
勢に、鳶ノ巣山(三河国)より
酒井忠次
が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、
酒井家次
、
松平家忠
、松平康忠、
松平伊忠
(戦死)・
松平家忠
、
松平清宗
、
小栗忠政
[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、
三枝昌貞
(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する
織田信長
・
徳川家康
の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:
佐々成政
、
前田利家
、
野々村正成
、
福富秀勝
、
塙直政
、
大島光義
。
徳川勢:
石川数正
、
大久保忠世
、
大久保忠佐
、
大須賀康高
、
鳥居元忠
、
平岩親吉
、
松平信一
、
松平忠正
、
松平康安
、
松平康元
、
酒井正親
、
榊原康政
、
本多忠勝
、
渥美友勝
、
岩瀬氏定
(戦死)、
加藤正次
。
武田勢:
馬場信春
(戦死)、
山県昌景
(戦死)、土屋貞綱(戦死)、
土屋昌続
(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、
武田信実
(戦死)、
真田信綱
(戦死)、
真田昌幸
、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、
名和宗安
(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、
米倉重継
(戦死)、青木信定(戦死)、
横手信俊
、
津金胤時
(戦死)、
跡部久直
(戦死)、
酒依昌光
(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項
天正3年 1575年 8月20日
織田信長
がひなかたけ山に籠る一揆勢を攻めるべく、
菅屋長頼
、
前田利家
等の馬廻衆を遣わし、1000余名を切り捨て、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
信長が
北畠茶筅
、
滝川一益
を大滝・白山に遣わし攻める。
越前一向一揆を悉く成敗もしくは2/3平定すると奈良(大和国)にて噂される。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)、『多聞院日記』同年月日条
天正3年 1575年 9月2日
織田信長
が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を
柴田勝家
に給付する。大野郡の2/3を
金森長近
に、1/3を
原長頼
に給付する。今立郡・南条郡を
佐々成政
、
前田利家
、
不破光治
に給付する。
明智光秀
に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を
細川藤孝
に給付する。
荒木村重
に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」
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