地 名 の 歴 史

三河国[国] みかわのくに
初 見-
三河国
碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡、八名郡、渥美郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭三河国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
三河国[国] 年表
享禄1年 1528年 -月-日 
本多広孝三河国碧海郡土居にて生まれる。
出典:-

天文4年 1535年 12月5日 
阿部正豊が森山(尾張国)にて、松平清康を殺害する。
出典:『当代記』巻1

天文13年 1544年 2月11日 
渥美友元三河国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友元」の項

天文17年 1548年 3月19日 
小豆坂(三河国)にて織田信秀松平広忠・太原雪斎率いる今川勢が戦い、松平・今川勢が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項

永禄3年 1560年 5月19日 
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄3年 1560年 5月23日 
徳川家康大高城(尾張国)より撤退する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」の項

永禄6年 1563年 -月-日 
加藤嘉明三河国にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

永禄8年 1565年 -月-日 
が三河国にて生まれる。
出典:-

永禄9年 1566年 -月-日 
鳥居忠政が三河国碧海郡渡郷にて生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 -月-日 
島田直時三河国矢作にて生まれる。
出典:-

元亀3年 1572年 -月-日 
本多富正が三河国にて生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 
松平家乗が三河国大給にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第9「松平家乗」の項

天正3年 1575年 5月20日 
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正7年 1579年 9月15日 
松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 -月-日 
奥平忠政三河国にて生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 4月9日 
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正17年 1589年 10月10日 
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

慶長6年 1601年 2月-日 
徳川家康が本多康重に岡崎(三河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 
徳川家康本多康俊に吉良(三河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長20年 1615年 4月6日 
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和9年 1623年 9月25日 
本多康紀が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 6月5日 
松平忠利吉田(三河国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平忠利」の項

正保2年 1645年 7月14日 
小笠原忠知が杵築(豊後国)より吉田(三河国)に移封となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項、同巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」

寛文3年 1663年 7月29日 
小笠原忠知吉田(三河国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項、同巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」

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