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事項 |
出典 |
天文16年 | 1547 | - | - | 1 | 松平近正が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項の没年・享年記載より逆算。 | 『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項 |
弘治1年 | 1555 | 10 | 23 | 9 | 「天文」より「弘治」に年号が改まる。 | - |
弘治4年 | 1558 | 2 | 28 | 12 | 「弘治」より「永禄」に年号が改まる。 | - |
永禄3年 | 1560 | 5 | 19 | 14 | 桶狭間にて織田信長が今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。 織田信長勢:森可成、前田利家。 今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。 | 『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項 |
永禄6年 | 1563 | 9 | 3 | 17 | 三河国で一向一揆が蜂起し、徳川家康と争う。 | 『大谷嫡流実記』「顕如」の項 |
永禄7年 | 1564 | 3 | - | 18 | 徳川家康と本願寺顕如が和睦する。 | 『大谷嫡流実記』「顕如」の項 |
元亀1年 | 1570 | 4 | 23 | 24 | 「永禄」より「元亀」に年号が改まる。 | - |
元亀3年 | 1572 | 12 | 22 | 26 | 三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄と徳川家康が戦い、信玄が勝利する。 武田信玄勢:真田昌幸、土屋昌続、横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。 徳川家康勢:酒井忠次、酒井正親、榊原康政[先鋒]、小栗忠政、鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。 織田勢:平手汎秀(戦死)。 浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。 | 『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項 |
天正1年 | 1573 | 7 | 28 | 27 | 「元亀」より「天正」に年号が改まる。 | - |
天正3年 | 1575 | 5 | 20 | 29 | 織田信長が酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。 | 『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」 |
天正3年 | 1575 | 5 | 21 | 29 | 辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。 酒井忠次勢:忠次、酒井家次、松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠、松平清宗、小栗忠政[雨宮家次討取]。 武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。 忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長・徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。 織田勢:佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政、大島光義。 徳川勢:石川数正、大久保忠世、大久保忠佐、大須賀康高、鳥居元忠、平岩親吉、松平信一、松平忠正、松平康安、松平康元、酒井正親、榊原康政、本多忠勝、渥美友勝、岩瀬氏定(戦死)、加藤正次。 武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊、津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。 | 『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項 |
天正10年 | 1582 | 3 | 11 | 36 | 織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。 | 『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」 |
天正10年 | 1582 | 6 | 2 | 36 | 本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。 信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。 信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。 | 『多聞院日記』同年月日・3日条 |
天正12年 | 1584 | 4 | 9 | 38 | 池田勝入斎・池田元助・森長可が丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。 小牧・長久手にて、織田信雄・徳川家康が羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。 羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。 徳川家康勢:榊原康政、大須賀康高、本多康重、丹羽氏次、酒井重忠、永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長、折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次、酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆] 勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。 | 『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項 |
天正12年 | 1584 | 6 | 18 | 38 | 織田信雄、徳川家康が滝川一益の守る蟹江城(尾張国)、前田長種の守る前田城(尾張国)、前田長俊の守る下市場城(尾張国)を包囲する。 | - |
天正12年 | 1584 | 6 | 22 | 38 | 織田信雄、徳川家康が滝川一益の守る蟹江城(尾張国)を攻め、同城を落とす。この城攻めに徳川家康勢として参加する。 | 『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、同巻第26「松平康安」の項、同巻第54「松平定勝」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項 |
天正13年 | 1585 | 11 | 13 | 39 | 石川数正が羽柴秀吉のもとに出奔する。出奔時、数正は松平近正に天野又左衛門を遣わし、秀吉方に加わるよう勧誘するが、近正は再度訪れた場合は切ると言って勧誘を拒絶する。 | 『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項 |
天正18年 | 1590 | 7 | 6 | 44 | 北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治、片桐且元、榊原康政が小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。 | 『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項 |
天正18年 | 1590 | 7 | 12 | 44 | 北条氏政・北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政。 | 『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項 |
文禄1年 | 1592 | 12 | 8 | 46 | 「天正」より「文禄」に年号が改まる。 | - |
慶長1年 | 1596 | 10 | 27 | 50 | 「文禄」より「慶長」に元号が改まる。 | - |
慶長5年 | 1600 | 6 | 16 | 54 | 徳川家康が大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高、金森長近・可重父子、山岡景友、池田輝政、池田長吉、福島正則・高晴兄弟、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政、蜂須賀至鎮、小出吉政、中村一栄、山内一豊、堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然>、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高、石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次、遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉、三好房一、船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安、宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。 | 『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 6 | 17 | 54 | 徳川家康が伏見城(山城国)の留守居として、鳥居元忠、松平家忠、内藤家長、松平近正を置く。 | 『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項 |
慶長5年 | 1600 | 6 | 18 | 54 | 徳川家康が江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。 | 『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 1 | 54 | 石田三成が蟄居中の佐和山城(近江国)を出て大坂城(摂津国)に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家の連署で発給する。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 2 | 54 | 徳川家康が江戸城(武蔵国)に到着する。 | 『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 17 | 54 | 毛利輝元が大坂城(摂津国)西の丸に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家が連署で発給する。 増田長盛が伏見城(山城国)の留守居であった鳥居元忠に退城を促すが断られる。 | 『義演准后日記』同年月18日条 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 19 | 54 | 伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。 | 『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 20 | 54 | 石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。 | 『義演准后日記』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 22 | 54 | 石田三成・鍋島勝茂等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。 | 『左大史孝亮記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 24 | 54 | 石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。 | 『左大史孝亮記』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 27 | 54 | 石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。なかなか落城しないため、「大鉄砲」を用いる。 | 『義演准后日記』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 29 | 54 | 石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。島津義弘が城を極楽橋より攻めるも、留守居の鳥居元忠に退けられる。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 7 | 30 | 54 | 石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。寅刻(3-5時)、松丸を落とす。 | 『義演准后日記』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 8 | 1 | 54 | 石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠、松平近正、松平家忠、内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。 | 『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項 |