人 物 史

松平近正 まつだいら ちかまさ
生 没 年天文16年(1547)-慶長5年(1600)8/1
出 身-幼 名-
別 称大給松平、五左衛門
法 名浄安
戒 名-
松平親清-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者大久保六左衛門の娘
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官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項
関 連 デ ー タ-
松平近正 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
天文16年1547--1松平近正が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項の没年・享年記載より逆算。
『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項
弘治1年155510239「天文」より「弘治」に年号が改まる。-
弘治4年155822812「弘治」より「永禄」に年号が改まる。-
永禄3年156051914桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項
永禄6年15639317三河国で一向一揆が蜂起し、徳川家康と争う。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
永禄7年15643-18徳川家康本願寺顕如が和睦する。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
元亀1年157042324「永禄」より「元亀」に年号が改まる。-
元亀3年1572122226三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝、加藤正信(戦死)、加藤比禰丞(戦死)。
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同777「加藤比禰丞」の項、同777「加藤正信」の項、同961「渥美友勝」の項
天正1年157372827「元亀」より「天正」に年号が改まる。-
天正3年157552029織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」
天正3年157552129辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項
天正10年158231136織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」
天正10年15826236本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
『多聞院日記』同年月日・3日条
天正12年15844938池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項
天正12年158461838織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)、前田長種の守る前田城(尾張国)、前田長俊の守る下市場城(尾張国)を包囲する。-
天正12年158462238織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)を攻め、同城を落とす。この城攻めに徳川家康勢として参加する。『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、同巻第26「松平康安」の項、同巻第54「松平定勝」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項
天正13年1585111339石川数正羽柴秀吉のもとに出奔する。出奔時、数正は松平近正に天野又左衛門を遣わし、秀吉方に加わるよう勧誘するが、近正は再度訪れた場合は切ると言って勧誘を拒絶する。『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項
天正18年15907644北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
天正18年159071244北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項
文禄1年159212846「天正」より「文禄」に年号が改まる。-
慶長1年1596102750「文禄」より「慶長」に元号が改まる。-
慶長5年160061654徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条
慶長5年160061754徳川家康伏見城(山城国)の留守居として、鳥居元忠松平家忠内藤家長松平近正を置く。『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
慶長5年160061854徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」
慶長5年16007154石田三成が蟄居中の佐和山城(近江国)を出て大坂城(摂津国)に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家の連署で発給する。『関原始末記』
慶長5年16007254徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』
慶長5年160071754毛利輝元大坂城(摂津国)西の丸に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家が連署で発給する。
増田長盛が伏見城(山城国)の留守居であった鳥居元忠に退城を促すが断られる。
『義演准后日記』同年月18日条
慶長5年160071954伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条
慶長5年160072054石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。『義演准后日記』同年月日条
慶長5年160072254石田三成鍋島勝茂等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。『左大史孝亮記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項
慶長5年160072454石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。『左大史孝亮記』同年月日条
慶長5年160072754石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。なかなか落城しないため、「大鉄砲」を用いる。『義演准后日記』同年月日条
慶長5年160072954石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。島津義弘が城を極楽橋より攻めるも、留守居の鳥居元忠に退けられる。『関原始末記』
慶長5年160073054石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。寅刻(3-5時)、松丸を落とす。『義演准后日記』同年月日条
慶長5年16008154石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項
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