歴史の目的をめぐって
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歴史
人 物 史
城 郭 史
寺 院 史
神 社 史
地 名
総 年 表
資料
文化財
商用利用可能 文化財画像
書籍
コンテンツ
和暦西暦変換
中世貨幣の価値
年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
高知城(土佐国)
こうちじょう
築 城 年
慶長3年 1603年
築 城 者
山内一豊
、
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
明治4年 1871年
別 称
-
現 所 在 地
〒780-0850
高知県高知市丸ノ内1丁目2-1
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
高知城(土佐国)の関連文化財
リ ン ク
山内一豊
高知城(土佐国) 年表
慶長10年 1605年 9月20日
山内一豊
が死去する。
出典:-
慶長19年 1614年 9月18日
片桐且元
が駿府(駿河国)より
大坂城
(摂津国)に戻る。且元は
豊臣秀頼
・
淀殿
に、今後、
徳川秀忠
との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと
徳川家康
より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条
慶長19年 1614年 9月25日
大坂(摂津国)にて
豊臣秀頼
の命により
大野治長
、
青木一重
、石川貞政、
薄田兼相
、
渡辺糺
、
木村重成
、織田頼長等が、
片桐且元
を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・
淀/茶々
に、
徳川秀忠
との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が
大坂城
(摂津国)を出て国替えに応じるか
徳川家康
より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。
本多正純
が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条
慶長19年 1614年 10月1日
板倉勝重
よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて
豊臣秀頼
の命により
大野治長
、
青木一重
、石川貞政、
薄田兼相
、
渡辺糺
、
木村重成
、織田頼長等が、
片桐且元
を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、
本多正純
・
板倉重昌
が
徳川家康
に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、
徳川秀忠
にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を
大坂城
(摂津国)より追い出し、
織田常真
を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・
貞隆
兄弟が大坂城を退去し、居城・
茨木城
(摂津国)に入る。
出典:『
片桐家秘記
』
慶長19年 1614年 10月4日
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)の
豊臣秀頼
を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月5日
板倉勝重
の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月6日
板倉勝重
の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の
織田有楽
の書状を
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に届ける。有楽の書状には、
片桐且元
による家康との交渉が不調に終わったことを
豊臣秀頼
が折檻したため、且元・
貞隆
兄弟は
茨木城
(摂津国)に退くことになり、
大坂城
(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・
秀忠
父子に対する野心はない伝える。
江戸城
(武蔵国)普請役を終えた
細川忠利
が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・
忠興
が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと
本多正純
を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた
中川久盛
が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に
岡城
(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌
の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・
松平忠明
が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから
加納城
(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月7日
江戸城
(武蔵国)普請役を終えた
京極高知
、
京極忠高
、
森忠政
、
田中忠政
が駿府(駿河国)に到着する。
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元
・
貞隆
兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は
本多正純
を介し、且元・貞隆が
大坂城
(摂津国)より
茨木城
(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が
駿府城
(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が
彦坂光正
に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が
沼津城
(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月8日
朝、
徳川家康
が
藤堂高虎
に
大坂城
(摂津国)攻めの先陣として、
天王寺
(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠
の使者として
土井利勝
が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、
豊臣秀頼
が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、
江戸城
(武蔵国)の留守居を
松平忠輝
、
蒲生忠郷
、
奥平家昌
、
最上家親
、
鳥居忠政
、
酒井重忠
、
酒井忠利
、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた
竹中重利
が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が
福島正則
と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が
織田長益
、
大野治長
、
木村重成
、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、
豊臣秀吉
は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・
忠勝
が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月10日
江戸城
(武蔵国)の普請を終えた
浅野長晟
、
鍋島勝茂
、
山内忠義
、
蜂須賀至鎮
、
小出吉英
、
稲葉典通
、
遠藤慶隆
、
毛利高政
が駿府(駿河国)に到着し、
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に対面する。家康は
大坂城
(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月11日
辰刻(7-9時)、
大坂城
(摂津国)攻めのため
徳川頼宣
が
駿府城
(駿河国)より出陣する。
安藤直次
・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、
徳川家康
が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、
本多正純
指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、
石川忠総
、
柳沢元吉
、
小倉吉次
[水野分長勢]
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 10月12日
申刻(15-17時)、
徳川家康
が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに
茨木城
(摂津国)より大野治純と
片桐且元
の使者が到着する。家康は治純を召し出し、
大坂城
(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、
豊臣秀頼
による籠城の準備は、
織田有楽
、織田頼長、
木村重成
、
渡辺糺
、
大野治長
等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる
板倉勝重
より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、
長宗我部盛親
、
後藤基次
、仙石秀範、
明石全登
、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・
貞隆
兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が
堺
(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を
大坂城
(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月13日
徳川家康
が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。
徳川秀忠
より家康のもとへ
板倉重宗
が到着する。
福島正則
の使者と
竹中重利
の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と
淀殿
の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は
本多正純
が内容を確かめる。その書状には、
方廣寺
(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より
長谷川藤広
の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と
高山重友
、
内藤如庵
、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と
安藤直次
所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を
堺
(和泉国)に出す。
片桐且元
が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は
尼崎
(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月14日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に
浜松
(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、
大坂城
(摂津国)の様子に変わりはないものの、
豊臣秀頼
が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は
高野山
(紀伊国)にいた
真田信繁
が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、
若原良長
が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、
淀殿
縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠
の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城
(武蔵国)の普請を終えた
加藤忠広
が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。
松平正久
が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた
脇坂安元
が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、
藤堂高虎
に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が
本多正純
を召し出し、
本多忠政
を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直
の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊
が
名古屋城
(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光
が
金沢城
(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月15日
徳川家康
が
吉田
(三河国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に
豊臣秀頼
が
堺
(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を
大坂城
(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月16日
徳川家康
が
岡崎
(三河国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に
豊臣秀頼
が槙島昭光を大将に軍勢300を
堺
(和泉国)に出す。
片桐且元
が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は
尼崎
(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則
が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を
江戸城
(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠
の使者として
成瀬正武
が家康のもとに到着する。正武は、
伊達政宗
、
上杉景勝
、
佐竹義宣
が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直
が
坂本
(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月17日
未刻(13-15時)、
徳川家康
が
名古屋
(尾張国)に到着する。
古田重然
、半井驢庵が家康を出迎え、家康は
名古屋城
(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊
が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月18日
雨により
徳川家康
が
名古屋
(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光
の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に
金沢城
(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直
の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に
坂本
(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・
山崎
(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊
が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条
慶長19年 1614年 10月19日
午刻(11-13時)、
徳川家康
が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より
豊臣秀頼
の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、
片桐且元
に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を
本多正純
が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ
織田有楽
・
大野治長
が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から
前田利長
に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている
福島正則
からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、
利光
より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、
島津家久
、
毛利宗瑞
、
鍋島直茂
、
黒田長政
、
福島忠勝
、
池田利隆
、
池田忠継
、
池田忠雄
、
浅野長晟
、
蜂須賀至鎮
、
加藤嘉明
、
森忠政
、
田中忠政
、
生駒正俊
に軍勢を率い、
大坂城
(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊
が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政
が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明
等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎
が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月20日
徳川家康
が
柏原
(近江国)に到着する。
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着し、
豊臣秀頼
が
二条城
(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月21日
徳川家康
が
佐和山
(近江国)に到着する。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月22日
徳川家康
が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より
板倉勝重
の飛脚が家康のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、
堺
(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が
竹中重利
を召し出し、
福島忠勝
とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、
豊臣秀頼
の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が
淀殿
の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月23日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて
膳所
(近江国)に到着する。船中、
戸田氏鉄
が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は
二条城
(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび
大坂城
(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則
が
豊臣秀頼
に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が
片桐且元
、
藤堂高虎
を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠
よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月23日
徳川秀忠
が
豊臣秀頼
の籠る
大坂城
(摂津国)を攻めるべく、
江戸城
(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として
酒井重忠
を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項
慶長19年 1614年 10月23日
豊臣秀頼
が
二条城
(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月23日
前田利光
率いる軍勢20000、
松平忠直
率いる軍勢10000が
下京
(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項
慶長19年 1614年 10月24日
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに、勅使として
広橋兼勝
、三条実條が赴く。
家康が
大坂城
(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠
の使者として
水野忠元
が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より
伊達政宗
、
上杉景勝
、
佐竹義宣
を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月25日
未刻(13-15時)、
山城国
で大地震あり。
二条城
(山城国)にて
徳川家康
が
藤堂高虎
、
片桐且元
を召し出し、
大坂城
(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝
勢が
伏見城
(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠
が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 10月26日
二条城
(山城国)にて
徳川家康
が
豊臣秀頼
のもとにいた
織田常真
と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が
池田利隆
、
浅野長晟
、
鍋島勝茂
等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が
江戸城
(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を
後藤光次
を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長19年 1614年 10月27日
一乗院、喜多院が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に対面する。
宝性院、
片桐貞隆
が家康に対面する。
石川貞政、
池田利隆
が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・
尼崎
(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、
徳川秀忠
の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に
江戸城
(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が
南禅寺
金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、
駿府城
(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は
金地院崇伝
・
林羅山
。
堺
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。
成瀬正成
が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条
慶長19年 1614年 10月29日
徳川秀忠
の使者として
永井尚政
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、
板倉勝重
を介し、家康に
大坂城
(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、
有馬豊氏
勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月2日
吉田
(三河国)より
徳川秀忠
の使者として内藤右衛門佐が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月3日
大坂城
(摂津国)の先陣の
片桐且元
が、同城を包囲したことを、
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に
藤堂高虎
が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、
松平清正
、
石川忠総
、
古田重治
、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、
伊達政宗
の使者として
山岡重長
が
徳川秀忠
のもとに到着する。重長は
本多正信
を介し、
豊臣秀頼
の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月5日
大坂城
(摂津国)より
薄田兼相
が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。
松平清正
が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項
慶長19年 1614年 11月6日
未刻(13-15時)、
松平清正
の飛脚が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。清正より、11月5日に
大坂城
(摂津国)より
薄田兼相
が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎
、
浅野長晟
が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項
慶長19年 1614年 11月7日
辰刻(7-9時)、
池田忠継
が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを
徳川家康
に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、
有馬豊氏
が中島に到着する。
近日中に家康が
二条城
(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・
法隆寺
・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮
が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項
慶長19年 1614年 11月10日
徳川秀忠
が永原(近江国)を出立する。
膳所
(近江国)にて
戸田氏鉄
が膳を献じる。
大津
・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて
徳川義俊
、
徳川頼宣
が秀忠を出迎え、対面する。その後、
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月15日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)攻めに赴くべく、
二条城
(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠
が大坂城を攻めるべく
伏見城
(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月16日
徳川家康
が
法隆寺
阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、
徳川秀忠
が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として
永井尚政
が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月17日
徳川家康
が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて
藤堂高虎
、
浅野長晟
、
蜂須賀至鎮
、
前田利光
、
松平忠直
、
生駒正俊
、
一柳直盛
・直重父子、
松平清正
、
本多忠政
・忠刻、
古田重治
、桑山元晴、
脇坂安元
、
池田忠雄
等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠
が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として
土井利勝
が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく
天王寺
・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣
率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年 1614年 11月18日
徳川家康
が住吉(摂津国)より、
徳川秀忠
が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は
天王寺
にて父子が面会する。家康は
藤堂高虎
、
本多正信
を召し寄せ、
大坂城
(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より
明石全登
が天王寺に向かって出撃し、
藤堂高虎
、
脇坂安元
が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝
が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項
慶長19年 1614年 11月25日
徳川家康
・
秀忠
父子が
天王寺
に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮
、
浅野長晟
が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。
石川忠総
が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』
慶長19年 1614年 11月19日
巳刻(9-11時)、
徳川秀忠
が住吉(摂津国)にいる
徳川家康
の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、
本多正信
、
本多正純
、
藤堂高虎
、
安藤直次
、
成瀬正成
を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房
、
薄田兼相
の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、
浅野長晟
、
池田忠雄
、
蜂須賀至鎮
が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗
の使者・
山岡重長
が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月26日
上杉景勝
、
佐竹義宣
が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた
矢野正倫
、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が
大坂城
(摂津国)より出勢し、義宣家臣の
渋江政光
率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より
木村重成
、
後藤基次
率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(
須田長義
、水原親憲等)、
榊原康勝
が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項
慶長19年 1614年 11月29日
朝、
蜂須賀至鎮
(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、
池田忠雄
、
戸川達安
、
花房正成
、
石川忠総
、
九鬼守隆
が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、
向井忠勝
が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が
大坂城
(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が
浅野長晟
に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として
成瀬正成
を遣わす。
家康が
安藤直次
を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項
慶長19年 1614年 11月30日
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
、
永井直勝
が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、
徳川家康
の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月3日
成瀬正成
、
安藤直次
が、
徳川義俊
・
徳川頼宣
の陣所となる
天王寺
(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠
が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽
・
大野治長
よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、
本多正純
、
後藤光次
のもとに到着する。
池田忠継
、
森忠政
を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。
井伊直孝
勢は
大坂城
(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月4日
徳川家康
が住吉(摂津国)より
天王寺
茶臼山に陣替えする。
徳川秀忠
が平野(河内国)より岡山に陣替えする。
徳川義俊
、
徳川頼宣
が
天王寺
(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、
松平忠直
・
本多富正
・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて
大坂城
(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は
安藤直次
を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝
勢が大坂城の
真田信繁
の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。
徳川秀忠
の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。
本多正純
の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は
藤堂高虎
の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』
慶長19年 1614年 12月9日
藤堂高虎
が
徳川家康
と
大坂城
(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重
の書状が家康に届く。
本多正純
が披露する。
家康が
永井直勝
、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が
松平忠直
の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重
が
島津家久
に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項
慶長19年 1614年 12月11日
徳川家康
が間宮新左衛門、
島田直時
、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって
大坂城
(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎
、
井伊直孝
、
前田利光
の陣場で堀をつくる。
黒田長政
が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟
が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月13日
徳川家康
が
中井正清
に、
大坂城
(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は
本多正純
に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康
が
松平正久
、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、
藤堂高虎
・
松平忠直
等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって
大坂城
(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月17日
徳川秀忠
が
水野忠元
、稲富重次をもって
佐竹義宣
の陣所の高所より石火矢(大砲)を
大坂城
(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟
が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月19日
徳川家康
・
徳川秀忠
父子と
豊臣秀頼
の間で和睦がなる。
家康が
藤堂高虎
、
仙石忠政
と対面する。
家康が松平甲斐守、
前田利光
、
松平忠直
、
加藤明成
、
福島忠勝
、松平河内守と対面する。
家康が
南光坊天海
と対面する。
家康が落馬して負傷した子・
頼宣
の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長
が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。
井上之房
、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『
菅氏世譜
』
慶長19年 1614年 12月24日
日の出前、茶臼山(摂津国)の
徳川家康
の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。
松平正久
、
板倉重昌
、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠
は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、
本多正信
、
土井利勝
が家康のもとに残る。
織田有楽
、
大野治長
が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。
京極忠高
も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に
藤堂高虎
、
本多正信
が列席する。家康は有楽、治長に
大坂城
(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。
前田利光
、
福島忠勝
、
浅野長晟
、
鍋島勝茂
、
細川忠利
、
寺沢広高
、
池田利隆
、
池田忠継
、
池田忠雄
、
森忠政
、
有馬豊氏
、
稲葉典通
、
京極高知
、
山内忠義
、
堀尾忠晴
、
加藤明成
、
南部利直
、
毛利秀就
、
毛利秀元
、
吉川広家
、
福原広俊
、
松平忠直
、松平忠昌、松平信吉、
榊原康勝
、
本多忠朝
、
本多忠政
、
松平清正
、
本多康紀
、
松平忠利
、水野勝成と対面する。
家康が
南光坊天海
、
金地院崇伝
と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が
佐和山
(近江国)を
井伊直孝
に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月25日
辰刻(7-9時)、
徳川家康
が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、
二条城
(山城国)に到着する。
板倉勝重
が迎える。茶臼山の陣所には
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
が残る。
徳川秀忠
が
大坂城
(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。
徳川義俊
、
徳川頼宣
も岡山に在陣する。
織田有楽
、
大野治長
、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 12月27日
岡山に在陣している
徳川秀忠
の使者として
土井利勝
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月3日
午刻(11-13時)、
徳川家康
が
駿府城
(駿河国)に帰城すべく
二条城
(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、
膳所
(近江国)に到着する。
膳所城
(近江国)城主の
戸田氏鉄
が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
慶長20年 1615年 1月12日
徳川家康
が
岡崎
(三河国)に逗留する。
徳川秀忠
の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。
大坂城
(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、
織田有楽
邸の家屋、西ノ丸、
大野治長
邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が
佐竹義宣
陣所に発砲したこと、義宣・
渋江政光
、屋代、
水原親憲
の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月19日
申刻(15-17時)、
徳川秀忠
が岡山の陣所より
伏見城
(山城国)に移る。
大坂城
(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、
松平忠明
、
本多忠政
等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、
本多正純
、
安藤重信
が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条
慶長20年 1615年 1月28日
徳川秀忠
が
二条城
(山城国)を発ち、
膳所
(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条
慶長20年 1615年 4月10日
徳川秀忠
が
豊臣秀頼
の籠る
大坂城
(摂津国)を攻めるべく、
江戸城
(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に
酒井重忠
を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項
慶長20年 1615年 4月21日
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月26日
徳川秀忠
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとに赴き、対面する。4日28日に
大坂城
(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月27日
徳川家康
の使者として
本多正純
が
伏見城
(山城国)にいる
徳川秀忠
のもとに赴き、4月28日とされていた
大坂城
(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月28日
豊臣秀頼
勢10000が郡山・龍田・
法隆寺
(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。
大和郡山城
(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、
大野治房
・槙島昭光が豊臣勢を率い、
堺
(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条
慶長20年 1615年 4月29日
浅野長晟
が信達(和泉国)にて
大野治長
の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、
大野治房
・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・
塙直之
・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の
上田宗箇
、
亀田高俊
、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。
徳川家康
は長晟の戦功を賞し感状を発給する。
松平正久
、秋元泰勝、
後藤光次
が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条
慶長20年 1615年 5月8日
豊臣秀頼
は
大坂城
サキ島の堀西方にある唐物倉にて
淀殿
・
大野治長
・
速水守久
等とともに残り、徳川家に和を乞うが、
井伊直孝
・
安藤重信
が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、
大蔵卿局
、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、
速水守久
、速水出来、津川左近、
大野治長
、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、
松平忠直
が、
真田信繁
、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、
徳川家康
が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、
二条城
に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』・『言緒卿記』同年月日条(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)
元和1年 1615年 7月18日
加藤忠広
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に礼をする。銀300枚・帷子を献上する。
家康が
松平忠直
、
前田利常
、
島津家久
、
池田利隆
、
山内忠義
、
堀尾忠晴
、
加藤明成
などに暇を下す。ただし、
田中忠政
、稲葉修理は在京を命じる。忠直・利常には
徳川秀忠
より黄金200枚が、家久・利隆には銀1000枚が下賜される。
出典:『駿府記』同年月日条
寛文4年 1664年 11月24日
山内忠義
が死去する。
出典:-
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