人 物 史

菅正利 かん まさとし
生 没 年永禄10年(1567)9/19-寛永2年(1625)6/29
出 身播磨国揖東郡越部村幼 名-
別 称孫次、六之助、忠利
法 名宗泉
戒 名松隠宗泉
菅正元-
兄 弟 姉 妹菅正利、菅正周、菅正辰
配 偶 者手塚水雪の娘
菅重俊
官 位和泉守
役 職-
城 郭高祖山古城(筑前国)
参 考 文 献○『菅氏世譜
関 連 デ ー タ菅正利の関連文化財
菅正利 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
永禄10年15679191菅正利が播磨国揖東郡越部村にて生まれる。菅氏世譜
元亀1年15704234「永禄」より「元亀」に年号が改まる。-
天正1年15737287「元亀」より「天正」に年号が改まる。-
天正3年1575--9弟・正周が生まれる。*『菅氏世譜』に文禄元年(1592)時点で正周は18歳と記載されていることから、逆算して天正3年(1575)を生年とした。菅氏世譜
天正11年158342117賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項
天正12年158432118根来寺衆、雑賀奥衆が和泉国に攻め入る。雑賀衆が中村一氏の籠る岸和田城(和泉国)を攻めるが、一氏が退ける。この戦いに、一氏の添番・黒田長政勢として参加する。『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条、『菅氏世譜
天正14年158672520黒田孝高島津義久討伐の先勢として、軍勢3000を率い京都(山城国)を出立する。黒田孝高勢として従軍する。『黒田家譜』巻3「孝高記」、『菅氏世譜
天正15年158712521島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年15872121島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年15872521島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158721021島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158721521島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158722021島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158722521島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年15873121島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年158732921豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年15874121豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年15874221豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年15874421豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741021黒田長政が通路切をすべく黒田一成栗山利安母里友信、小河伝右衛門、黒田玉松、後藤基次、野々村太郎兵衛、菅正利、桐山孫兵衛、益田与介、野口藤九郎、竹森次貞、高市常三等を引き連れ、耳川(日向国)に赴いたところ島津勢の襲撃を受ける。黒田勢は応戦し、撤退する。菅氏世譜』、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年158741121豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741121豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年158741321豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741621豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741721宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。『藤堂家覚書』
天正15年158741921豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158742121豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875521豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875621島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年15875821太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875921豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正15年15877321豊臣秀吉小倉城(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が黒田孝高に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡を、毛利高政に豊前国規矩郡・田河郡を給付する。
孝高は馬ヶ嶽城(豊前国)に入城する。
『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年158710921黒田長政城井鎮房の籠る城井谷城(豊前国)を攻める。この城攻めに、黒田長政勢として参加する。菅氏世譜
天正20年159261426夜、平壌城より高彦伯、柳璟令が大同江(平安川)に布陣する日本軍の宗義智の陣を夜襲する。小西行長黒田長政が応戦し、日本軍が勝利する。この戦いに黒田長政勢として参加する。菅氏世譜
文禄1年159212826「天正」より「文禄」に年号が改まる。-
文禄3年159421328黒田長政、菅正利がそれぞれ虎を狩る。菅氏世譜
慶長1年1596102730「文禄」より「慶長」に元号が改まる。-
慶長1年1596--30子・重俊が生まれる。菅氏世譜
慶長2年15979731毛利秀元黒田長政が軍勢30000を率い明軍が陣取る稷山(朝鮮国)に向かう。稷山にて解生率いる明軍と黒田勢が戦う。この戦いに黒田長政勢として参加する。菅氏世譜
慶長3年159861332黒田長政が菅正利に豊前国宇佐郡蜷木村内にて300石を給付し、足軽50名の頭とする。菅氏世譜
慶長5年160091534関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜
慶長5年160011-34黒田長政中津城(豊前国)に帰城する。菅氏世譜
慶長5年1600121134黒田長政名島城(筑前国)に入城する。『黒田家譜』巻13「長政記」、『菅氏世譜
慶長6年160131535黒田長政が菅正利に筑前国怡土郡内にて3000石を給付し、与力として菅四郎左衛門、石尾上藤九郎、中村孫介、名倉源太を付す。菅氏世譜
慶長6年16014135黒田長政が菅正利に家臣として近藤十助、菅与七郎、永田六兵衛、安藤平内、久東藤左衛門、塩津伝左衛門、飯付加右衛門、重松助太郎、田吹与三郎、溝部善兵衛、溝部又助、羽仁半助、田部与作、弓削甚左衛門、豊前喜左衛門、津崎善兵衛を付す。菅氏世譜
慶長9年160432038辰刻(7-9時)、黒田如水が死去する。『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長19年161451748父・正元が死去する。菅氏世譜
慶長20年16151-49黒田忠之が暇を賜い居城・福岡城(筑前国)に帰国する。供奉は菅正利。菅氏世譜
慶長20年161542049黒田長政伊達政宗加藤嘉明東福寺不二庵に到着する。同庵に長政の妻、娘・とく、子・犬万、子・万吉が合流する。『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」
慶長20年161542549大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政福岡城(筑前国)の留守居である井上之房栗山利安黒田一成、桐山信行、黒田利長、菅正利に、軍勢10000にて出陣すること、15日分の兵粮・飼料を用意すること、上方にての兵粮奉行は毛利又左衛門とすること、玉薬・鉄砲奉行は勝野伊右衛門・高岡権太夫・倉八兵衛とすること、火矢奉行は都筑十兵衛とすること、楯の板しやく木奉行には山本兵右衛門・庄野半太夫・小西助之允とすること、大鋸喜兵衛・しやくわん喜左衛門・鍛冶10名・伴彦兵衛・松本五右衛門・馬杉喜右衛門をともなうこと、鉄100貫目を持参すること、福岡城の留守居は毛利左近・母里友信・手塚水雪・菅正利とすること、領内に関所を設け人の出入りを改めること、黒田徳松を福岡城番に加えること命じる。菅氏世譜
慶長20年16155549黒田忠長勢10000が兵庫(摂津国)に到着する。黒田勢:黒田忠長[大将]、井上之房、菅正利、衣笠景延、桐山信行、栗山利安、竹森次貞、母里友信、吉田長利。『黒田家譜』巻14「長政記」
元和1年161571349「慶長」より「元和」に年号が改まる。『駿府記』同年月日条
元和4年161812551黒田長政が菅正利、宮崎織部、手塚久左衛門に命じ福岡城(筑前国)の城下・荒戸西の町のはずれより早良川の遠干潟迄の砂原に松を植樹するよう命じる。菅氏世譜
元和6年162081654江戸(武蔵国)に居る黒田長政が、福岡(筑前国)に居る井上之房・菅正利に、8月7日に田中忠政が死去したこと、忠政が家督相続人を立てていなかったので幕府が使節を忠政の所領である筑後国に遣わすこと、それにつき筑前国の領民が筑後国に赴くことがないようすること等を伝える。菅氏世譜
元和7年1621102455菅正利が家督を子・重俊に譲る。菅氏世譜
元和7年162111555黒田長政が菅正利の子・重俊への家督譲与は認めつつも退去が認めず隠居領1200石を給付し、福岡城(筑前国)南ノ丸の城番とする。菅氏世譜
元和9年16238457黒田長政が報恩寺にて死去する。
『黒田家譜』巻14「長政記」では閏8月4日死去とある。
菅氏世譜』、『黒田家譜』巻14「長政記
寛永1年162423058「元和」より「寛永」に年号が改まる。-
寛永2年162562959菅正利が死去する。菅氏世譜
人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.