人 物 史

黒田利高 くろだ としたか
生 没 年天文23年(1554)-文禄5年(1596)5/18
出 身-幼 名-
別 称次郎、小一郎、小寺利隆
法 名-
戒 名清月道旭大居士
黒田職隆明石正風の娘(小寺政職の養女)
兄 弟 姉 妹黒田孝高黒田利高、香山妙春、黒田利則、黒田直之、心誉春勢、浦上清宗
配 偶 者斎藤仁左衛門の娘
黒田政成、娘(野村三十郎の妻)、娘(栗山利章の妻)
官 位兵庫助
役 職-
城 郭高森城(豊前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ黒田利高の関連文化財
黒田利高 年表
天文23年 1554年 -月-日 1歳
黒田利高が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 2歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 5歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄11年 1568年 12月3日 15歳
甥・長政が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 17歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 20歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 5月14日 23歳
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 -月-日 24歳
黒田孝高が、織田信長に人質として子・松寿丸安土城に送る。信長は松寿丸を羽柴秀吉の長浜城(近江国)に置く。
出典:『黒田長政事績』

天正6年 1578年 4月2日 25歳
別府・阿閉(播磨国)にて雑賀衆・毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正10年 1582年 6月2日 29歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 29歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正12年 1584年 3月21日 31歳
根来寺衆、雑賀奥衆が和泉国に攻め入る。雑賀衆が中村一氏の籠る岸和田城(和泉国)を攻めるが、一氏が退ける。一氏の添番として、根来寺衆と戦う。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条

天正13年 1585年 5月4日 32歳
羽柴秀吉黒田孝高に、長宗我部元親成敗につき、6月3日に四国へ向けて出陣・渡海するので、先勢として出陣するように命じる。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正13年 1585年 8月22日 32歳
父・職隆が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻1「職隆記」・巻2「孝高記」

天正14年 1586年 7月25日 33歳
黒田孝高島津義久討伐の先勢として、軍勢3000を率い京都(山城国)を出立する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 11月7日 33歳
吉川元春元長父子、黒田孝高が宇留津城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:(天正14年)11月20日付豊臣秀吉書状(『吉川家文書』1-98号)、『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 1月25日 34歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 34歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 34歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 34歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 34歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 34歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 34歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 34歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 34歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 34歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 34歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 34歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 34歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 34歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 34歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 34歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 34歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 34歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 34歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 34歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 34歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 34歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 34歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 7月3日 34歳
豊臣秀吉小倉城(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が黒田孝高に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡を、毛利高政に豊前国規矩郡・田河郡を給付する。
孝高は馬ヶ嶽城(豊前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 9月13日 34歳
豊臣秀吉が、肥後国一揆について、小早川秀包、龍造寺政家、筑後国勢が出陣したこと、小早川隆景が久留米城(筑後国)に在陣していることを理解したうえで、毛利吉成・黒田孝高へ隆景とともに一揆を成敗するよう改めて命じる。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 10月1日 34歳
城井鎮房等の豊前国衆が蜂起する。黒田長政は馬嶽城(豊前国)より出陣し、安雲村朝日嶺にて、黒田家に味方する国衆より人質を取る。姫隈城(豊前国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 10月9日 34歳
黒田長政城井鎮房の籠る城井谷城(豊前国)を攻める。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 4月20日 35歳
黒田長政城井鎮房中津城(豊前国)に招き殺害する。
出典:-

天正18年 1590年 6月24日 37歳
豊臣秀吉が、小田原城(相模国)に籠城している北条氏政氏直父子に降伏を促すため、同城に黒田如水滝川雄利を遣わす。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 37歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 37歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 39歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄5年 1596年 5月18日 43歳
黒田利高が死去する。
出典:-

慶長5年 1600年 9月10日 
黒田如水勢が高田城(豊後国)の竹中重信の軍勢と合流し、赤根峠に陣取る。
夜、大友義統が浜脇(豊後国)に到着する。大友勢は松井康之有吉立行の籠る杵築城(豊後国)を攻める。孝高は井上之房・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平大夫・母里与三兵衛・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の軍勢3000を援軍として遣す。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月11日 
黒田如水が垣見理右衛門・藤井九左衛門の籠る富来城(豊後国)を包囲する。如水は杵築城(豊後国)の救援に向かうため、同城より引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月12日 
黒田如水が安岐城(豊後国)の近くに陣取る。如水勢と安岐城を守っていた熊谷次郎介が戦う。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月13日 
石垣原の合戦で黒田如水大友義統が戦い、如水が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 
大友義統黒田如水に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月16日 
黒田如水が安岐城(豊後国)を攻めるべく、同地に向かう。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月17日 
黒田如水が熊谷外記の守る安岐城(豊後国)を包囲する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月18日 
黒田如水が安岐城(豊後国)攻めにつき井楼を築く。城を守る熊谷外記に降伏を勧める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月19日 
安岐城(豊後国)を守る熊谷外記が、黒田如水に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日 
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月24日 
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を鉄砲にて砲撃する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月2日 
大垣城(美濃国)にて垣見一直が殺害されたことを伝える垣見家の使者が富来城(豊後国)を包囲中の黒田如水勢に捕縛される。如水は使者を富来城に遣わす。一直の死を知った垣見理右衛門・藤井九左衛門は富来城(豊後国)を如水に明け渡す。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月4日 
黒田如水が富来城(豊後国)を発ち、広津山(豊前国)に陣取る。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

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