人 物 史

豊臣秀保 とよとみ ひでやす
生 没 年天正7年(1579)-文禄4年(1595)4/16
出 身-幼 名辰千代、御虎
別 称秀俊、羽柴秀保
法 名-
戒 名瑞光院花嶽妙喜
三好吉房
豊臣秀長[養父]
とも(瑞龍院日秀)
兄 弟 姉 妹豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保
配 偶 者おきく(豊臣秀長の娘)
-
官 位参議、中納言
役 職-
城 郭大和郡山城(大和国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ豊臣秀保の関連文化財
豊臣秀保 年表
天正7年 1579年 -月-日 1歳
豊臣秀保が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 4歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 4歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正11年 1583年 4月21日 5歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正12年 1584年 4月9日 6歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正15年 1587年 1月25日 9歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 9歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 9歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 9歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 9歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 9歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 9歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 9歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 9歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 9歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 9歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 9歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 9歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 9歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 9歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 9歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 9歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 9歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 9歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 9歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 9歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 9歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 9歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正18年 1590年 3月1日 12歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 12歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 12歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正19年 1591年 12月5日 13歳
豊臣秀保北野社に参詣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正20年 1592年 9月9日 14歳
兄・秀勝が朝鮮にて死去する。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 14歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 12月29日 15歳
豊臣秀保聚楽第(山城国)にいる兄・秀次のもとを訪問する。秀次は秀保に村雲の脇差を贈る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 3月2日 16歳
豊臣秀次が弟・秀保大和郡山城(大和国)に入り、城内の山里丸に宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 2月28日 17歳
豊臣秀長の娘が毛利秀元に嫁入りすべく京に入る。
出典:『北野社家日記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月16日 17歳
豊臣秀保が十津川(大和国)にて死去する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『駒井日記』同年月18日条

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