城 郭 史

要害山城(甲斐国) ようがいさんじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称積翠寺城
現 所 在 地〒400-0011
山梨県甲府市上積翠寺町
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク駒井昌長
■ 年表
元亀1年 1570年 5月13日 
織田信長が永原(近江国)に到着する。永原城(近江国)に佐久間信盛を、長光寺城(近江国)に柴田勝家を置く。安土城(近江国)に中川重政を在番させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

天正4年 1576年 1月-日 
織田信長安土城(近江国)の普請を丹羽長秀に命じる。
出典:『信長公記』巻9(1)「安土御普請の事」

天正4年 1576年 2月18日 
松永久通が安土山(近江国)に築城するため同地に赴く織田信長を迎えるため、安土山に向け出発する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 2月24日 
織田信長安土城(近江国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月26日条

天正4年 1576年 2月26日 
織田信長安土城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月7日 
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れる。兼見は3月4日に安土城(近江国)を訪れ織田信長に礼をしたことを語る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月8日 
織田信長安土城(近江国)に向けて妙覚寺を出発する。今道を通る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月10日条

天正4年 1576年 6月28日 
大乗院尋憲織田信長のもとへ礼に赴くため安土城(近江国)に向けて出発する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 8月3日 
堀秀政村井貞勝が2日に捕らえた大坂本願寺の使者を、両名が安土城(近江国)に連行する
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月16日 
細川藤孝安土城(近江国)よりの帰路に吉田兼見を訪れる。神龍院に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月23日 
禁裏への礼として織田信長飛鳥井雅敦のもとへ赴き、銀子100枚を進上する。
安土城(近江国)に帰るべく京都を発す。石山寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月25日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻9(7)「被進御官御衣御拝領の事」

天正5年 1577年 1月2日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 1月25日 
織田信長安土城(近江国)に帰城すべく京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 3月27日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 閏7月4日 
織田信長上洛につき迎えのため、筒井順慶、越智氏が安土城(近江国)に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月6日条

天正5年 1577年 閏7月14日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正5年 1577年 8月8日 
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 8月17日 
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月28日 
松永久秀久通父子討伐のため大和国に向かう織田信忠安土城(近江国)の丹羽長秀邸に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 9月29日 
織田信忠安土城(近江国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 10月4日 
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を安土(近江国)より京都に移す。5日処刑されると噂される。矢部家定、福富秀勝が移送を担当する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月5日条

天正5年 1577年 12月3日 
織田信長が京都より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月10日 
織田信長吉良(三河国)にて鷹狩をするため安土城(近江国)を発し、丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 12月21日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 12月28日 
織田信忠安土城(近江国)に赴き、丹羽長秀邸に宿泊する。織田信長が子・信忠に初花、松花、雁絵、竹子花入、くさり、藤なみの御釜、道三茶碗、内赤盆を賜う。
出典:『信長公記』巻10(14)「中将信忠へ御名物十一種被参事」

天正6年 1578年 1月13日 
織田信長が清須(尾張国)にて鷹狩をするため安土城(近江国)を出立する。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月20日 
織田信長の妻子が安土城(近江国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 1月25日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 4月22日 
織田信長が京都より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月21日 
織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 8月15日 
織田信長が近江・京都の相撲取をはじめ1500人を安土城(近江国)に集めて大相撲会を行う。蒲生氏郷が相撲に加わる。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 9月9日 
織田信忠北畠信雄兄弟が安土城(近江国)にて相撲を見物する。
出典:『信長公記』巻11(10)「小相撲の事」

天正6年 1578年 9月23日 
織田信長が上洛するため安土城(近江国)を出立し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月6日 
織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。京都から坂本(近江国)を経由し船にて安土城(近江国)に帰城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」

天正6年 1578年 10月10日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 10月21日 
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月9日 
織田信長荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 12月25日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正7年 1579年 1月29日 
村井貞勝安土城(近江国)より上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 5月3日 
早朝、織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。山中より坂本(近江国)を経由し、船にて安土城に帰城する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 5月11日 
織田信長安土城(近江国)の天主に移る。
出典:『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 5月27日 
織田信長安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 6月4日 
波多野秀治・秀尚・秀香が安土城(近江国)に送還され、織田信長の命により磔にされる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 6月18日 
織田信忠安土城(近江国)にいる父・信長のもとへ見舞いのため赴く。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月6日 
安土城(近江国)にて相撲が行われる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月7日 
安土城(近江国)にて相撲が行われる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 8月6日 
織田信長が近江国内の相撲取を召し寄せ、安土城(近江国)にて相撲を取らせる。この日、甲賀出身の伴正林が「よき相撲」を七番打つ。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月7日 
8月6日に引き続き、織田信長が近江国内の相撲取を召し寄せ、安土城(近江国)にて相撲を取らせる。6日に活躍した伴正林が再度よい相撲をとったため、信長に召し抱えられる。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月4日 
羽柴秀吉が播磨国より安土城(近江国)にいる織田信長のもとに赴き、宇喜多直家の赦免を請う。信長は、秀吉が事前に相談することなしに、直家の赦免を約束したことに怒り、秀吉を播磨国に追い返す。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 10月8日 
戌刻(19-21時)、織田信長が二条御新造を発ち、安土城(近江国)に向かう。翌9日の日の出に安土城に到着する。
出典:『信長公記』巻12(12)「謀書の事」

天正7年 1579年 10月24日 
明智光秀織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、丹後国・丹波国の平定を報告する。
出典:『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月3日 
織田信長が上洛するため安土城(近江国)を発つ。信長は瀬田橋御茶屋に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 12月19日 
織田信長が京都を発ち、安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 3月19日 
織田信長長命寺より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月28日 
織田信長が鷹狩をする。安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正8年 1580年 閏3月6日 
織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」

天正8年 1580年 閏3月16日 
織田信長安土城(近江国)の構の南の新道の北の田地を埋めキリシタンに屋敷地を与える。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 閏3月-日 
織田信長安土城(近江国)の鳥打の下江を埋め町を立てる。西北海の口に船入を所々に掘る。また、「江堀」を埋め、稲葉刑部、高山重友、日根野六郎左衛門、日根野弥次右衛門、日根野半左衛門、日根野勘右衛門、日根野五右衛門、水野監物、中西権兵衛、平松助十郎、余呉久兵衛、野々村正成川尻秀隆に屋敷地を与える。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 5月3日 
織田信忠北畠信雄安土城(近江国)に赴き、自身の屋敷の普請を命じる。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 5月5日 
織田信長安土城(近江国)にて相撲を催す。織田家一門衆が見物する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 5月7日 
安土城(近江国)の江堀、船入、道普請が完了する。奉行の丹羽長秀津田信澄に暇が下され、長秀は佐和山城(近江国)に、信澄は高島郡(近江国)への帰城する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 5月17日 
織田信長が国中の相撲取を召し出し、安土城(近江国)にて相撲を催す。御馬廻衆が見物する。良い相撲を取ったあら鹿、吉五、正林に米50石が下付される。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月24日 
織田信長安土城(近江国)にて相撲を催す。織田家一門衆が見物する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月30日 
織田信忠安土城(近江国)に赴く。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正9年 1581年 1月1日 
安土城(近江国)の構の北、松原町の西の海端に馬場を築くべく普請を開始する。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻14「御馬場普請の事」

天正9年 1581年 3月10日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 3月12日 
佐々成政、神保長住が安土城(近江国)にいる織田信長のもとに鞍・鐙・轡・黒鎧を進上する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 7月15日 
安土城天主と惣見寺にたくさんの提灯をつり、馬廻衆が道と琵琶湖に浮かべた船に松明をかかげる。山上が輝き、水面に映るさまを多くの人が見物する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 7月25日 
織田信忠安土城(近江国)に訪れる。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 8月1日 
織田信長安土城(近江国)にて馬揃を行う。
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」

天正9年 1581年 10月12日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月13日条

天正9年 1581年 10月25日 
鳥取城(因幡国)を守る吉川経家が、城兵の助命と引き換えに切腹する。検使は堀尾吉晴
羽柴秀吉は経家の首を安土城(近江国)に送る。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)、『豊臣記』

天正9年 1581年 10月26日 
羽柴秀吉が丸山城(因幡国)を落とし、塩屋周防守・奈佐日本介の首を安土城(近江国)に送る。また攻撃中の吉岡城・大崎城が自焼する。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)

天正9年 1581年 12月3日 
羽柴秀吉が野口孫五郎に織田信長が孫五郎の降伏を認めた旨を伝えるとともに、12月27・28日には安土城(近江国)に上り、年始の挨拶をする旨にようにと伝える。なお土産についてはで用意するようにとも述べる。
出典:天正9年12月14日付野口孫五郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-364号)

天正10年 1582年 1月5日 
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ歳暮の礼として送った使者・平井越後が鷺森本願寺に戻ってくる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月8日 
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ年始の礼として八木駿河を遣わす。
御使として下間仲孝、寺内若狭を安土(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月21日 
父・直家の死去につき、重臣が織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、秀家への家督相続を認めてもらう。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」

天正10年 1582年 2月8日 
根来寺泉識坊の首が安土城(近江国)に届けられ、安土城百々橋に置かれる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月24日 
本願寺顕如安土城(近江国)に帰る野々村正成に藤井八郎左衛門を添え遣わし、織田信長に礼を述べる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月26日 
信濃国に向けて出陣する織田信長を見舞うため、大乗院尋憲安土城(近江国)に向けて出発する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月5日 
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 4月20日 
本願寺顕如織田信長に音信として遣わした川那部右衛門が鷺森本願寺に帰寺する。
八木駿河を安土城(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 4月21日 
織田信長岐阜城(美濃国)を発つ。呂久渡で稲葉一鉄が、今須(美濃国)にて不破直光が、柏原(近江国)にて菅屋長頼が、佐和山城(近江国)にて丹羽長秀が、山崎(美濃国)にて山崎片家が信長に一献を進上する。その後、信長は安土城(近江国)に帰城し、開陣する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 4月24日 
青蓮院尊朝、妙法院常胤が安土城(近江国)に向け出発。大津(近江国)より乗船して向かう。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 4月25日 
青蓮院尊朝安土城(近江国)に登城する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 5月14日 
徳川家康穴山梅雪が番場(近江国)に到着する。家康、梅雪のため丹羽長秀が番場に宿を設ける。また、長秀は岐阜城(美濃国)より安土城(近江国)に向かう織田信忠に対し番場にて一献を進上する。
出典:『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」

天正10年 1582年 5月15日 
徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』

天正10年 1582年 5月17日 
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。 光秀は安土城(近江国)より坂本城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月20日 
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 5月23日 
大乗院尋憲安土城(近江国)より奈良(大和国)に帰寺する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 5月29日 
織田信長が上洛し、本能寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(30)「信長公御上洛の事」

天正10年 1582年 6月2日 
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月3日 
本能寺の変により安土城(近江国)より上臈衆が立ち退くにあたりに城に火をかけることを提案するが、留守居・蒲生賢秀が「天下無双の御屋作り」を失うことを惜しみ、また金銀・名物を損じることがあっては世間の嘲笑を受けるといって、火をかけることを止める。
出典:『信長公記』巻15 同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月13日 
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 6月17日 
明智光秀家臣・斎藤利三の身柄が安土城(近江国)にて拘束される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 10月20日 
安土城(近江国)城下の新町・鳥打において南蛮寺の建設が始まる。
出典:『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正11年 1583年 閏1月4日 
羽柴秀吉筒井順慶安土城(近江国)にいる織田信雄のもとに礼として赴く。
出典:『多聞院日記』同年月12日条

天正11年 1583年 -月-日 
織田信雄安土城(近江国)に入城する。
出典:『天正記』「柴田合戦記」

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